第7話 蝶の戦(二)
その二日後に開催された舞踏会にも、ロレッタは怯むことなく出かけていった。同じ轍は踏むまいと選んだ濃いネイビーのドレスは亜麻色の髪を美しく引き立て、ロレッタをより一層大人っぽく見せた。
「アディンセル嬢、今夜は一段とお美しいですね」
「ありがとうございます。トレイシー様からお褒めの言葉を頂戴できるなんて光栄ですわ」
だらしなく頬を緩めるトレイシーと笑顔で会話を交わすロレッタ。その様子を忌々しげに見つめる集団が、離れた位置から見守るヴェスの視界に入る。
見覚えのある三人組の令嬢は、口元を扇子で隠しながら何を話しているのか。嫌な予感しかしないことに、ヴェスは誰にも気づかれない程度に小さく肩をすくめた。
その後すぐ、ロレッタはトレイシーのダンスパートナーの座を手に入れた。ダンスが不得手なトレイシーの相手も慣れたもので、今宵もうまくフォローしながら自身も優雅に踊ってみせる。
オーケストラが奏でていたのは、比較的テンポの速いワルツ。そして会場はやや混雑していた。
隣で踊るペアとの距離が近くなったその時、ぶつかりそうになった女性のハイヒールがロレッタの足を踏みつけた。
「っ……!!」
「あらぁ、ごめん遊ばせ?」
せせら笑うようなセリフも、キンキンと高い声も、二日前に聞いたものとまったく同じだった。
痛みに耐え顔を上げたロレッタと視線が合った相手の令嬢は、一瞬勝ち誇ったようにほくそ笑み、何食わぬ顔でダンスを続ける。
足元は長いドレスの裾でろくに見えない。周囲の目には、二つのペアが接触しかけた、ただそれだけとしか映らない。
「どうかしましたか?」
ダンスに必死だったトレイシーが、ようやくロレッタの動きが止まったことに気づいたようだ。
「――いいえ、なんでもありませんわ」
ここで騒いでダンスを止めるのは品性に欠ける。トレイシーは動揺するだろうし、気まずい空気になりかねない。ロレッタは一瞬の判断で悔しさも憤りもすべて飲み込み、にっこりと微笑み返した。そして涼しい顔でダンスを再開する。その額に汗の玉が光っていることに、誰も気が付かなかった――ただ一人を除いては。
曲が終わり、トレイシーと別れたロレッタは、何食わぬ顔で会場を抜け出した。
向かった先は会場とテラスで繋がっている温室だった。常時開放されているその場所は、夜は明かりが最小限に落とされ薄暗い。それでも宮殿の窓から漏れる光と月明かりで、歩くには十分な明るさだった。
薔薇園のベンチに腰をかけ、ドレスの裾を持ち上げる。パンプスの爪先の近くにできたへこみは、よく見ると布地が破けていた。
一体どれだけの力を込めて踏みつけたのか。呆れてため息をついてみても、痛みは引く気配がない。血は出ていないし、さすがに骨に異常はないと思いたいが。
(まだ舞踏会は始まったばかりなのに)
その時、コツコツと近づいてくるヒールの音に気付いてロレッタは顔を上げた。会場の方から歩いてくる、ドレスのシルエットが三つ見える。ロレッタが温室へ向かったのを見ていたのだろう。
人目のない温室で、三対一はさすがに分が悪い。ロレッタがごくりと唾を飲んだ、その時。
座っていたはずの体がふわりと宙に浮かんで、ロレッタは小さく悲鳴を上げた。
「ヴェス……!?」
「ったく、一人で勝手に出ていくんじゃねえよ」
いつの間に近づいていたのだろうか。不機嫌そうに舌打ちするヴェスに、ロレッタは軽々と横抱きにされていた。
「ちょっと、下ろしてくださる!? それに人が――」
「きゃああああ!!」
動揺するロレッタの声は甲高い悲鳴にかき消される。出どころはロレッタに嫌がらせをしたあの令嬢たちだった。
「いやあああっ!! 蜘蛛!?」
「気持ち悪いっ……どうしてこんなにいるの!?」
「ああっ、ドレスが糸でベタベタにっ……! 誰かー!」
慌てふためく令嬢たちとは反対側の出口から、ヴェスはロレッタを抱えたまま足早に温室を後にする。その足音は一切しない。
横抱きにされたままのロレッタがそっと見上げて尋ねた。
「……もしかして、貴方が?」
「こんだけ草木が生えてりゃ蜘蛛くらいいるだろ」
ヴェスは目を合わせることなく、前を向いたまま歩き続ける。頭上にはガラス越しの満月。青白い光に照らされたヴェスの黒い髪は、まるで濡れたカラスの羽根のように艶めいていて。
ロレッタはその横顔から目が離せなくなった。
「馬車は移動させてある。さすがにその足でまだ踊るなんて言わねえだろうな」
「……重くないの?」
「はぁ?」
ヴェスは怪訝そうに眉を寄せて、ようやく横抱きにしたロレッタへと視線を落とした。ロレッタはその視線から逃げるように、ふいと顔を背ける。
「重いに決まってるだろ」
「なっ……!?」
ロレッタが顔を真っ赤にして見上げた時には、ヴェスはすでに前を向いていた。
「カーテンみてえなドレス着てるお嬢様方の気が知れないね。そのへんの男よりよっぽど鍛えてんじゃねえの?」
「……ふふっ、カーテンって」
一瞬ポカンとしたロレッタだったが、小さく吹き出してクスクスと笑い出した。
作り笑いでも愛想笑いでもなく、可笑しくて笑ったのはいつぶりだろうか。
ロレッタは馬車に着くまでの短い間、ヴェスの温かい胸に体を預けた。




