第6話 蝶の戦(一)
ロレッタは社交の場を通して、トレイシーとの距離を順調に縮めていた。
堂々と振る舞い、かといって決してがっつかず、近づいては離れる。時にはあえて他の男性貴族と親しげに会話して見せ、またさりげなくターゲットの元に舞い戻る。
子爵令嬢であるロレッタの貴族としての地位は決して高くはない。それでも彼女の美貌は、舞踏会という煌びやかな舞台でも必ず周囲の目を引いた。
地位よりも容姿を望む男もいる。自分に地位があれば妻の実家の爵位など些細な問題で、それ以上に美しい妻を連れていることがステータスとなる――と考える者も確実に存在するのである。
トレイシーが相手にどちらを求めるタイプなのかは今のところ判然としない。しかしその視線が優雅に踊るロレッタを追い、彼女と会話する時は鼻の下が伸びていることは、社交の場に付き添うヴェスには目に見えて明らかだった。
ただ、出る杭は打たれるとはどこの国の諺だったか。
ある日の舞踏会、ロレッタは別室に用意された軽食を口にしながら、旧知の令嬢たちと談笑していた。
「――あっ」
ニコニコと会話していた友人が突然声を漏らし、さっと青ざめた。その視線を追って振り向いたロレッタのクリーム色のドレスには、大きな葡萄色のシミができていた。
「あらぁ、ごめん遊ばせ?」
ロレッタの後ろに立っていたのは、ルージュの濃い口元を釣り上げた貴族令嬢だった。ロレッタより二、三歳年上だろうか。その後ろには取り巻きの令嬢が二人。
壁際で一部始終を見ていたヴェスが頭の中の人物台帳を捲る。皆、上級貴族である侯爵家か伯爵家のご令嬢だ。
「本当にごめんなさいねぇ、わざとじゃなかったのよぉ? ほら、この部屋も混み合っているでしょう? こんなところでお友達と無駄なおしゃべりをしているのもどうかと思うのよねぇ」
ワイングラスを手に持った令嬢は、紡ぐ言葉とは裏腹に口元の笑みを隠そうともしなかった。後ろの取り巻きは扇子で口元を隠しているが、露骨にクスクスと肩を震わせている。
一方でロレッタの友人たちは何も言わず、存在を消すかのように息を潜めていた。彼女たちもまた、ロレッタと同じ子爵位の家の令嬢だ。
ロレッタは誰にもわからないように小さく息を吐くと、上品に微笑んで見せた。
「もちろんわざとだなんて思っておりませんわ、どうかお気になさらないで。こちらこそ配慮が足りず大変失礼いたしました」
相手がギリ、と奥歯を噛む音が耳に触れる。ロレッタは文句のつけようもない淑女の礼を披露すると、友人たちに断って、ヴェスの元へ颯爽と歩いてきた。
「今日はもう帰りましょう」
「あ、ああ……いいのか?」
「仕方がありません、この状態では悪目立ちするだけです」
ロレッタはヴェスと目も合わせず、淡々と言って会場を出ていく。ヴェスは慌てて彼女の後に続いた。
無言のロレッタがツカツカと足早に歩みを進める。しかし馬車を待たせた玄関まであと少しというところで、突然立ち止まった。
「おい、どうした? 具合でも悪いのか」
ヴェスは体を屈めて、うつむいたロレッタの顔を横から覗き込んだ。目元は髪に隠れてわからないが、形の良い唇が引き結ばれているのが見える。
するとその唇がわずかに開き、普段の彼女からはかけ離れた、か細い声がこぼれ落ちた。
「お母様の、お気に入りのドレスだったの……。私が着られるよう、仕立て直して……」
ドレスを握りしめた両手が小刻みに震えている。いつもは堂々と胸を張ったロレッタの肩が、今はずいぶんと小さく見える。
――いや、もしかしたら今見えているのが、大柄とは言えないロレッタの本当の姿なのかもしれなかった。
体を起こしたヴェスはやれやれと小さく息をつく。そして、動かなくなってしまったロレッタの頭をポンポンと優しく撫でた。
髪に触れる、懐かしくてくすぐったい感触に、ロレッタはきゅっと息を呑む。
「……そんなこと執事がするものではありません。ここは屋敷の外ですのよ」
「へいへい、そりゃ失礼しました」
投げやりに答えたヴェスがロレッタの背中にそっと左手を添えると、ロレッタはようやく顔を上げ、馬車に向かって歩き出した。




