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第5話 アディンセル邸の事情

 ヴェスは盛大にあくびをしながら、アディンセル邸の廊下を歩いていた。


 まれに別の仕事をすることもあるが、ヴェスの日中の本業は執事である。それに加えて、昨晩は夜会の付き添い、その前の晩はフロックハート伯爵邸への潜入調査。もちろんフロックハート邸まで馬車が出るなんてことはない。そんな夜勤の翌日も、休息なんてものをあの老執事・ティルソンが与えてくれるはずもなく。


 あくびが止まらない。

 ただでさえ体にガタが来てるのに、どう考えても過重労働だっての。


「コラッ! 執事とあろうものがはしたないですよ!」


 完全に油断していたところに飛んできた叱咤に、ヴェスは思わず肩を跳ねる。おそるおそる振り向けば、そこにはアディンセル家の侍女頭・バーサが畳んだ白いシーツの山を抱えて立っていた。


「あ……スンマセン」


 ヴェスが素直に頭を下げると、ふくよかな顔に目くじらを立てていたバーサは一転、相好を崩した。


「まー、あなたもいろいろと大変みたいだからねえ! 今はいいけど、お客様の前では気をつけてちょうだいね?」


 カラカラと笑う様子は商店を切り盛りする女将を彷彿とさせた。こういった噂好きのお節介おばさんはどこの平民街にも必ずいて、街の治安維持や住民の団結に一役買っていたものだ。

 ヴェスもなんとなく、バーサには好感が持てた。だが、このおばさんがいったいどこまでヴェスの事情を関知しているのか、いまいち判然としない。


「あー……、シーツ運びます」

「あら、ありがとう! 助かるわぁ」


 ヴェスが受け取ったシーツの山はずっしりと重かった。そんな量の洗濯物をバーサが一人で運んでいた理由はただ一つ、使用人の数が少ないからである。侍女頭と言っても、そもそも侍女は彼女一人しかいない。そのほかの使用人やコックも最小限の人数しかいない――いや、足りないのである。

 その理由を確認したことはないが、案外この家は金がないのだろうとヴェスは踏んでいた。現在、アディンセル子爵の爵位は先代の従兄弟が代理となって維持されている。領地経営の利益はそちらに流れているのだろう。


「気が利くわねぇ、さすがティルソンさんが連れてきただけあるわ」

「あの人、ずいぶんと信頼されてますね」

「そりゃあそうよぉ、なんてったってロレッタお嬢様のひいお祖父様の代から執事を務めてるって話だから」

「……いくつなんですか、あの人」

「さあねぇ? でも、見た目以上にご高齢のはずよ。一度は引退した身だもの」

「引退?」


 意外な事実にヴェスが驚きを見せると、今度はバーサが小さな目をぱちくりさせた。


「あら、知らなかったの? ティルソンさん、三年前に一度倒れてねぇ。心臓を患ったらしくて、その時一度執事を辞められたの。だけどそれから一年もしないうちにヘンリー様が亡くなってしまわれたから……。後任の執事も、なんだかぼんやりした人だったしねぇ」


 ヘンリーとは亡きアディンセル子爵、つまりロレッタの父親の名前だ。

 ああ、そういうことか、とヴェスは合点が行った。

 ティルソンはおそらく、信用できる人間しかこの家に置いていないのだ。後任だった執事がオトウェイ子爵の息がかかった者だった……というのはさすがに考えすぎかもしれないが、もし自分が主人のそばについていたのなら、という思いはあったのだろう。


 よく考えてみれば、ティルソンが突然くたびれたおっさんを連れてきて猛烈に執事教育をし始めたなんていう珍妙な光景が、外部で噂にならなかったのも妙な話だった。執事として違和感なく振る舞えるようになるまで、ヴェスの存在が外に漏れることは一切なかった。体裁上、ヴェスはすでに執事としての勤務経験がある者をティルソンが引き抜いてきた、ということになっている。


「だからあなたには期待してるのよぉ! ティルソンさんを安心させてやりなさいね!」


 バシン、と背中を叩かれて、ヴェスは前につんのめった。

 いやいや待て、後任になった覚えはない。


「あなたが来てからお嬢様も楽しそうだしねぇ。生き生きとしていらっしゃって嬉しいわぁ」


 復讐に燃える姿がそんなふうに見えるのかとヴェスが白い目をした一方で、それに気づかぬバーサの表情が(かげ)る。


「あなたは知らないでしょうけれど、ヘンリー様が亡くなったときのお嬢様の落ち込みようと言ったら見ていられないほどだったのよ。直後に控えていた社交界デビュー(デビュタント)も流れちゃって。だけど去年、奥様がご病気で亡くなられたあとから急にしゃんとされてねぇ。元々しっかり者だから、天国のご両親に恥じぬよう気丈に振舞われているんだろうけれど、それがまた健気でねぇ」


 バーサが目尻を拭う。それはあらゆる人間に扮してきたヴェスの目にも、演技としては映らなかった。


「最近はほら、恋もされてるみたいじゃない? まー、見た目はちょっとアレだけど、家柄は申し分ないものね! やっぱり恋は女性を美しくさせるのよ、お嬢様は元々お美しいけれど!」


 涙から一転、楽しそうに含み笑いをしたバーサに、ヴェスは呆れて肩をすくめる。

 ロレッタが企むものが政略結婚よりもずっとタチの悪いものだと知ったら、バーサは腰を抜かすだろう。それにヴェスには、毒蛾にも似たあの令嬢が恋をする姿など想像できなかった。


「恋ねぇ……恋なんですかね、アレは」

「あら、知らないの? お嬢様はああ見えてねぇ、ご趣味が……」


 目を三日月型にしたバーサが、口元を隠すように手を当てる。ヴェスはそれに付き合って腰を屈めた。


「……は?」


 ヴェスは耳打ちされた内容に目を丸くする。それを見たバーサは満足そうに笑って言った。


「お嬢様のお部屋に入ることもあるでしょ? 今度、見てみなさいな」

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