第2話 大泥棒・蝙蝠〈ヴェスペルティリオ〉
ロレッタは私室のアンティークテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばしながら、ティルソンに問いかけた。
「一週間しごいてみて、あの男はどう?」
「なかなか骨のある男です。手先の器用さに加えて周りをよく見ていますし、なにより記憶力がいい。見込み通り二ヶ月で、執事として表に立てる程度には仕上がるでしょう」
「そう、安心したわ。さすがは貴族専門の泥棒として名を馳せていただけあるわね」
ロレッタは優雅に紅茶で喉を潤しながら、テーブルに置いた数枚の紙に視線を落とす。書かれているのはティルソンが調べ上げた、あの男――ヴェスの情報だった。
通称、ヴェスペルティリオ――この国の古い言葉で『蝙蝠』を意味する呼び名。またの名を『千の顔を持つ男』。
貴族の邸宅に保管された金品のみを狙う、貴族専門の大泥棒。犯行予告は行わず、夜、貴族の屋敷に音もなく侵入しては、主人を縛り上げて金品を奪い、去っていく。黒ずくめの風貌と夜を飛び回るような身軽さから、いつしか蝙蝠と呼ばれるようになった。
邸宅の構造や住人の生活リズムを熟知した犯行手口から、事前に使用人や業者を装って下調べを行なっていたと推察され、それが『千の顔を持つ男』と称される理由である。
窃盗被害はかれこれ二十年以上続いており、彼によるものと特定できただけでも三十件を超える。捕まることなく続いてきた長いキャリアと、貴族のみをターゲットにすることから、平民の間ではちょっとした義賊として扱われているらしい。
彼に掛けられた懸賞金は貴族から見てもなかなかの額だ。これだけ被害の数があれば無理もないだろう。だがティルソンの資料によれば、彼の罪状は貴族に対する暴行と窃盗、そして――。
「放火……?」
「ええ、あの男は十九年前、一度だけ貴族の邸宅に火を放っています。住人は全員無事だったようですが」
「これ、当時の伯爵家に泥棒に入って、数日後にわざわざ火をつけに戻っているの?」
「そのようですね」
ティーカップとソーサーをテーブルに戻し、紙を捲る。二枚目の紙にずらりと並んだ罪状リストの中で、放火の二文字があるのは十九年前の一件だけだ。
三枚目は、彼が過去に変装し、すり替わったとされる人物のリストだった。貴族の屋敷の使用人、庭師、侍女。邸宅に出入りする食材の卸業者、配管工、贔屓のパン屋の娘……。
ロレッタは思わず顔をしかめた。確かにあの男は細身で身長も高くはないが、パン屋の娘って。
「あの顔が素顔なのよね?」
「そうでございます。あれ以上、皮は剥げませんでした」
ロレッタはヴェスをひっとらえた夜を思い返す。無造作に後ろでまとめた黒い髪、痩けた頬に汚らしい無精髭。義賊扱いされているとは思えないほどくたびれた男は、捕らえられたというのに抵抗する様子は一切なく、気だるさそうな濃紺の瞳は死んだ魚のように濁っていた。さらに口を開けば、あの言葉遣い。
「……もうちょっと紳士的なおじさまだったらよかったのに」
「何かおっしゃいましたか?」
「ううん、なんでもないわ」
ついこぼした独り言を誤魔化して、ロレッタは再びティーカップを上品に口に運んだ。
◇◇◇
その日の夜遅く、ベッドに仰向けに倒れ込んだヴェスの口からしゃがれた声がこぼれた。
「疲れた……」
小さいが個室もある。広くはないが柔らかくて清潔なベッドもある。酒は出ないが食事は文句なしにうまい。
だがいかんせん、あの老執事が容赦ない。食事以外に座る暇もなく、朝から晩まで執事のなんたるかを叩き込まれる。というか業務内容が広すぎるし多すぎる。もっと人を雇えよ。
これは憲兵に突き出された方がマシだったんじゃないだろうか。
「……いや、それはないな」
白い天井をぼんやりと見つめたまま、ぼそりと呟く。
貴族相手に盗み続ける生活が永遠に続くなど、端から思っていなかった。事実、四十を超えた体には泥棒という仕事は体力的にキツくなっていた。ただ他の生き方を知らないだけで、ダラダラと二十年以上続いていたことが奇跡だったのだ。
だから終わりがどういう形でやってくるか、想像はついていた。それが今、まったく予想外の展開の最中にいることが不思議でならない。
お縄になればヴェスは間違いなく極刑だ。それほどに貴族に罪を働いた場合の罰は重く、平民の命は軽い。だが、大の大人だって痛いのは嫌だ。血も嫌いだ。斬首刑もなぶり殺されるのも勘弁だ。
死にたくはない。
本当に死んでよかったのなら、あの時死んでいたはずなのだから。
死ねなかったという理由だけで、まだ、生きている。




