後日談 七日間の父親(一)
西陽が色を濃くした頃、馬車の窓から外を見たロレッタが嬉しそうに声を上げた。
「ヴェス見て! あれが我がアディンセル家の田舎屋敷よ!」
「へえ……立派な屋敷だな」
夕日でオレンジ色に照らされた豪華な邸宅が、ヴェスの目にも飛び込んでくる。
社交界シーズンが終わり、ロレッタは使用人や必要な家財道具を馬車に乗せて、王都のタウンハウスからアディンセル子爵領へと帰ってきた。
ヴェスにとっては初めて足を踏み入れる土地である。
「それにしても長い移動だった……」
ヴェスは馬車の座席に体を戻すと、げっそりとした顔でズルズルと背中を滑らせた。向かい合って座っているロレッタがこてんと首を傾げる。
「そう? わたくしはあっという間だったわ」
「お前、ずっと喋ってたもんな……」
夜明け前にタウンハウスを出発してからというもの、社交界シーズン中に観たオペラの感想、アディンセル領の特産品や見どころ、果てはロレッタの愛読する大衆小説の話まで。途中、ヴェスが舟を漕ぎ始めると容赦なく叩き起こされた。
ヴェスが執事として戻ってきてから、ロレッタはこんな調子だ。
半年程度の付き合いとはいえ、こんなに表情がコロコロ変わる子だとは知らなかった。復讐を果たすために政略結婚を目論んでいた間、舞踏会の蝶として振る舞うことにどれほど気を張っていたのだろうか。ずいぶんと大人びて見えていた彼女は、今は年相応の女の子という雰囲気がある。
不意に目が合えば、ロレッタは誰もが賛美する端正な顔を綻ばせてみせた。
――とっくに盗んでおりますよ、この家で最も尊い宝石を。
盗んでない盗んでない。全部あのジジイの妄想だ。
「どうしたの、ヴェス? 顔が赤いわ」
「は!? ゆ、夕日のせいだろ!」
「本当? 熱でもあるんじゃ――」
ロレッタの顔が迫ったその時、馬の嘶きと共に馬車の動きが止まった。
ヴェスが間髪入れず扉を開け、先に降りてロレッタをエスコートする。そんなに急がなくても、とロレッタは眉をひそめたが、ヴェスの手を取って軽やかに馬車を降りた。
屋敷の玄関前では、使用人たちが主人を出迎えるために整列していた。それを見たロレッタの顔が、パッと花が咲いたように明るくなる。
「マーサ、ただいま!」
白いワンピースを翻して、幼い少女のように駆けていく。そして使用人たちの中で一歩前に出ていたエプロン姿の女性に駆け寄った。
後を追ってきたヴェスはギョッと目を見開いた。ふくよかで背の低い侍女に見覚えがある。ロレッタは振り返って、固まっているヴェスに満面の笑みを向けた。
「ヴェス、家政婦長のマーサよ。バーサの双子のお姉さんなの!」
「ああ……なるほど……」
ヴェスはホッと胸を撫で下ろした。タウンハウスで働いていた侍女のバーサはティルソンと共にまだ馬車に乗っているはずだ。
「マーサにはカントリーハウスに残って、この屋敷を管理してもらっているの」
「貴方が新しい執事のヴェスね? お嬢様から手紙で話は伺っているわ」
「あ、どうも……」
ニコニコと微笑むマーサから右手が差し出される。その手を握り返した瞬間、ヴェスは上げそうになった悲鳴をかろうじて飲み込んだ。
手、握り締められてめちゃくちゃ痛いんですが。
「ティルソンさんからもお話は伺っておりますのよぉ……?」
「ええと、なんの話でしょうかねぇ……?」
マーサのどこか恐怖心を煽る笑顔から、逃げるように視線を逸らす。今し方、馬車で頭から振り払ったばかりの件だとしたら冤罪だ。
ヴェスの指の骨が軋んだところでマーサは手を離し、口元に手を当てて耳打ちした。
「ロレッタお嬢様を救ってくれたんでしょう? ありがとうねぇ、お嬢様のお顔を拝見してホッとしたわ」
ヴェスはマーサに合わせて身を屈めながら、ちらりとロレッタを見遣った。他の使用人を労っているため、こちらの声は聞こえていないようだ。
ロレッタは使用人たちと親しげに話し、使用人たちも顔を綻ばせている。
「さあ、今度はティルソンさんを安心させるためにビシバシ働いてちょうだいね!」
マーサに背中を力一杯叩かれ、ヴェスは大きく前につんのめった。
◇◇◇
その夜、ヴェスがあてがわれた個室で眠ろうとしていた時、控えめにドアがノックされた。ベッドから体を起こすと同時に、おそるおそるといった様子でドアが開く。
遠慮がちに顔を見せたのはロレッタだった。
「ねえヴェス、ちょっといいかしら?」
「へっ」
「なんだか眠れなくて……」
そう言いながら部屋に入ってきたロレッタは、薄地のネグリジェ姿だった。
「きゃっ!?」
「そんな薄着でうろうろしてんじゃねえ、アホ!」
急に視界が暗くなり、ロレッタが悲鳴を上げる。頭から掛けられた布の正体は、ヴェスが泥棒として鍛えた俊敏さで投げたナイトガウンだった。
「アホとはなによ! 夏だから暑いくらい……あら、でもこの部屋は地下だからか涼しいわね……?」
「だから言ってんだろうが! 今ハーブティー淹れてやるから待ってろ!」
ヴェスは部屋を出ると乱暴にドアを閉めた。そして廊下の途中で立ち止まると、壁に向かって額を強かに打ちつけた。痛々しい音がひと気のない廊下に反響する。
ロレッタの本心がどうであれ、そんな大胆な行動に出るはずはない。いったい何歳離れていると思っているのか。一瞬でもその可能性を考えた自分が馬鹿馬鹿しい。
――それにしたって。
「無防備すぎんだろうが……」
復讐に燃えていた頃はあんなに策略的だったのに。
ヴェスはひとつ大きく息を吐き、額を壁から離してフラフラと厨房へ向かった。
ヴェスがティーセットを載せたトレイを持って部屋に戻ってくると、ナイトガウンを羽織ったロレッタが不思議そうに目を瞬いた。
「あら? ヴェス、おでこが赤いわ」
「気のせいだろ」
ヴェスはムスッとしたままティーカップに黄金色の液体を注ぎ、ベッドに腰掛けているロレッタに差し出した。
「ありがとう」
ソーサーごと受け取ったロレッタはカップを持ち上げると、香りを堪能してから口をつける。
カップが口元から離れ、ロレッタの頬に血色が戻ったのを見てから、ヴェスはその隣に腰を下ろした。
「ごめんなさい、こんな時間に訪ねて」
「……別にいいよ」
申し訳なさそうに謝るロレッタに、ヴェスは目を合わせず、しかし彼にしては優しい声音で答える。
本当はすぐにでも追い返してやろうと思っていた。だが、丸一日を移動に費やして疲れているはずのロレッタが眠れない理由に思い当たると、冷たくあしらう気になれなかった。
カントリーハウスに到着したあと、使用人と挨拶を済ませたロレッタがそのままの足で向かったのは、庭園の奥にひっそりと佇む両親の墓だった。
白いワンピースが汚れることも厭わず膝をつき、道中で買い求めた花束を添えると、両手を強く組み合わせて目を閉じた。
『お父様、お母様。オトウェイ子爵の悪行は断罪されましたわ。どうか安らかにお眠りになって……』
ロレッタがその体勢のまま五分近く微動だにしなかったのを、ヴェスは後ろで見守っていた。
「……家族みたいだったな」
「え?」
ベッドの縁に腰掛けたヴェスが呟く。ロレッタはきょとんとして顔を向けた。
「使用人たちと距離が近いんだな」
ロレッタは驚いた顔から、ふふっと誇らしげに笑みを覗かせた。
「当たり前でしょう? わたくしを赤ん坊の頃から見守ってくれた大切な家族ですもの。お父様とお母様も、みんなのことをとても大切にしていたわ……。『使用人たちがいるからわたくしたちは暮らしていけるの。感謝の気持ちを持って接しなさい』って、お母様によく言われたの」
「お前の父親がそこまでして爵位を守ろうとした理由が、ようやくわかった気がしたよ」
人間、落ちぶれたって生きていける。貧民出身のヴェスには、爵位を守るために命を絶ったロレッタの父親の気持ちが理解できずにいた。
今は少しだけわかる。守りたかったのは名誉でも金品でもなく、この『家族』だったのだろう。
ロレッタはなにも言わずにティーカップへと視線を落とした。二人の間に沈黙が流れる。地下の小さな部屋は耳が痛くなるほどの無音だ。
その沈黙を、ロレッタの小さな声が破った。
「……ねえ、ヴェスの家族は?」
驚いたヴェスが横に並んで座るロレッタを見返す。ヴェスを見つめる青い目には、気兼ねと同時に隠しきれない好奇心が浮かんでいた。
「俺は物心ついた頃には孤児だったぞ。親の顔も名前も知らん」
「そうじゃなくて、その……。ヴェス、お父さんだったんでしょう?」
ヴェスは隠す気もなく舌を打った。
「あのクソジジイ、どこまで喋りやがったんだ……」
「無理にとは言わないけれど……聞いちゃダメかしら?」
遠慮すべきとわかっていながら、どうしても知りたいのだろう。
それならば、いつか話すなら今話したって変わらない。ヴェスはやれやれとため息をついた。
「お前が好む小説みたいな、お美しい話じゃねえぞ」
「わかってるわ」
「まあ、胸糞悪りぃ話聞いてクビにしたくなりゃ好きにしろ」
「しないわ、そんなこと!」
即答したロレッタの声に、ティーカップの中身が小さく跳ねる。
ヴェスはそれを横目で見てから、手を後ろについて天井を仰ぎ、遠い記憶を語り始めた。
「――俺が父親だったのなんて、たったの七日間だけだ」




