第14話 忠誠の証
夢を見た。
五歳だったか、六歳だったか。
孤児院で暮らす子供に娯楽らしい娯楽はなくて、よく虫を追いかけていた。
強い日差しが照りつけるある日、花に止まっていた蝶に手を伸ばした。
蝶はあっけなく捕まって、手の中で粉々になった。
薄い羽が存外脆かったこと、命がいとも簡単に潰えてしまったことに呆然としていると、肩にそっと手が置かれた。
老いたシスターは優しく微笑んで、蝶の亡骸を花壇の隅に埋めるよう促した。
あの鱗粉に毒はなかった。ただ、あの蝶の生きた証が、手のひらでキラキラと光っていた。
『次からは、小さな命を大事にしましょうね。――ほら』
顔を上げたシスターに釣られるようにして、空を見上げた。
『蝶は自由に舞うから美しいのよ』
もう何十年も前の記憶なのに。
青空に舞う黄色い蝶のコントラストが、やけにはっきりと脳裏に残っている。
◇◇◇
翌朝になってヴェスの個室がもぬけの殻になっていることに気がついたロレッタは、自らの足で屋敷中を探し回った。すぐ帰ってくると信じ、夜も眠らずに過ごして迎えた朝、ついに取り乱してティルソンにすがりついた。
「ねえティルソン、どうしよう、わたくしのせいだわ……!」
「落ち着いてくださいませ、お嬢様」
「わたくし、ヴェスにひどいことを言ったの。とてもひどいことを……」
ティルソンの腕に受け止められたまま、うつむくロレッタの目から涙がこぼれる。
父を亡くした後は泣き暮れ、母を亡くした後にもう泣かないと決めた。それ以来の涙がポロポロとこぼれ落ち、絨毯にシミを作っていく。
――薄汚い犯罪者のくせに。
なんてひどいことを言ったのだろう。そんなこと、本気で思っていたわけじゃないのに。
だけど、口から出た言葉は取り消せない。訂正したい相手はもうこの屋敷にいない。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
ティルソンの普段と変わらぬ穏やかな声に、ロレッタは濡れた顔を上げた。ロレッタとは対照的に落ち着き払った老執事が優しく微笑みかける。
「あの男はお嬢様を見捨てたりしません。私にはわかります」
「どうして、そんなことが言えるの……?」
きょとんとするロレッタに、ティルソンは笑みを絶やさず語りかける。
「彼は逃げ出そうと思えばいつだって逃げ出せたのですよ。それでも四ヶ月にわたってロレッタ様のために尽くしてきた。そういうことです」
「それは確かに、そうかもしれないけれど……でも、本当に? 見限られていないかしら……」
「これまで私が嘘を言ったことが一度でもございましたか?」
ロレッタは迷うことなく首を横に振り、ようやく涙を拭った。ティルソンはポケットから取り出した真っ白なハンカチを手渡し、ロレッタの肩に優しく手を置いた。
「あの男を信じて待ちましょう」
◇◇◇
ヴェスが姿を消してから、あっという間に二週間が過ぎた。
ロレッタはフィリップから招待された茶会に参加するため、オトウェイ子爵邸に向かっていた。少人数で行われる茶会にはトレイシーも招かれている。フィリップが気を利かせたのだろう。
――復讐なんてくだらないモン、やめちまえ。
ヴェスが吐き捨てた言葉が思い起こされる。だけどいまさら後には退けない。トレイシーとの婚約が秒読みだと噂されていることはロレッタ自身も把握していた。
ヴェスの協力があってここまで来られたのだ。婚約まで取り付けなければ、それこそ彼の奮闘が無駄になってしまう。
ヴェスがそばにいた証が、なくなってしまう。そんな気がして。
馬車から降りて立ち尽くしていたロレッタに、付き添うティルソンがそっと声をかけた。
「お嬢様、参りましょうか」
「……ええ」
ロレッタは目を閉じて一度だけ深呼吸すると、背筋を伸ばして颯爽と歩き出した。
汗ばむほどの陽気の下、茶会はオトウェイ邸の庭で開かれた。
ロレッタは真っ白なテーブルクロスが引かれた長いテーブルのそばへと案内され、笑顔で客人を出迎える、主催のフィリップ・オトウェイに恭しく頭を下げた。
「我が屋敷にようこそ、アディンセル嬢」
「フィリップ様、本日はお招きいただき光栄でございますわ」
優雅に微笑み、指先まで神経を研ぎ澄ませて、完璧な礼を披露する。そして顔を上げた――その時。
ロレッタの目はフィリップではなくその後方、離れた位置に姿勢よく並ぶ使用人の一人に釘付けになった。
短く刈り上げた髪に日に焼けた肌色の、壮年の男。
健康的で小綺麗な印象は、ロレッタがよく知るあの男と全然違う。だけど、カラスの羽根に似た髪色と鋭い夜空色の瞳を見間違えるはずがなかった。
どうして、こんなところに。
どうして自分の元を離れて、仇のオトウェイ子爵のところに。
澄ました顔で佇むその使用人は、呆然とするロレッタと視線を交わすと、ほんのわずかに眉を寄せた。
――黙ってろ。
そんな声が、ロレッタには聞こえた気がした。
ロレッタの視線の行方に気がついたフィリップが不思議そうに顧みる。
「どうされました? ああ、使用人の中にはうちで働き始めて日が浅い者もおりましてね、失礼があったら申し訳ない」
「いえ……皆様、とても優秀そうな方々ですわね」
ロレッタは慌てて笑顔を作り、フィリップと挨拶がわりの談笑を交わす。そして後ろ髪を引かれるように、使用人に背を向けようとして。
気がついた。
使用人の黒いベストの襟に、黒玉の襟ピンが、まるで闇に身を隠すかのように慎ましく輝いていることに。
ロレッタはそのまま背を向けて、姿勢良く歩き出した。決してうつむかないように、涙がこぼれないように、ドレスをぎゅっと握りしめて。
オトウェイ子爵の不正会計のニュースが新聞の一面を飾ったのは、それから二週間後のことだった。




