第12話 伯爵令息の思惑
オペラ観劇の次の夜、ヴェスは執事服ではなく体に沿う黒ずくめの服で、フロックハート伯爵邸の天井裏に潜入していた。
フロックハート邸には紅茶の茶葉の商人や屋敷の修繕業者などさまざまな姿で出入りし、建物の構造は完全に把握している。このあたりは大泥棒として名を馳せたヴェスのお手の物だ。
天井裏への侵入も初めてではない。物音を一切立てずに、慎重にトレイシーの私室の上を目指す。
埃っぽい天井裏を這うヴェスの目の前を、薄汚れたネズミが走っていく。思わずため息がこぼれた。
一銭も手に入らない。見つかれば一貫の終わり。それなのに何が楽しくて、野郎の趣味嗜好を収集しなければならないのか。
これまでに得たトレイシーの情報といえば、重度の甘党。好物は肉と揚げ物で、野菜はほぼ口にしない。頭は悪くないようだが極度の運動嫌いで、乗馬や狩りよりオペラ鑑賞や賭博といった娯楽を好む。ちなみに、女性の好みは年下で胸周りは大きいほどいいらしい――という情報はロレッタには黙っておいた。
全身を埃まみれにして目的の位置に辿り着くと、天井下から話し声が聞こえてきた。
声の主はトレイシー・フロックハート、そしてもう一人、フィリップ・オトウェイ――ロレッタの復讐相手である、オトウェイ子爵の子息だ。
親戚同士である二人は年齢が近いことから仲がいいらしい。舞踏会でも二人が一緒にいる姿を、ヴェスも何度も目撃している。
フィリップの情報も得られるに越したことはない。オトウェイ子爵の情報も転がり込んでくる可能性がある。ヴェスは息を潜め、天井下の会話に耳を澄ました。
ところが、最初こそオペラの感想を話していたものの、これといって収穫のない話が三十分ほど続いた。なんの参考にもならない、どこぞの貴族の噂話。
うんざりしたヴェスが今日はもう引き上げようかと考え始めたとき、若い貴族令息二人の会話は思わぬ方向へと向かった。
「それで、トレイシーは誰を妻として迎えるつもりなんだい? オペラに招待したくらいだから、アディンセル嬢に気があるんだろう? 最近は舞踏会でも必ずパートナーになっているようだけど」
フィリップが興味津々で尋ねると、トレイシーは低い鼻を得意げに鳴らした。
「彼女は僕にぞっこんのようだからね、踊りたそうに寄ってくるから都合がいいよ。彼女の美しさは社交外随一だから、僕も鼻が高い」
「へえ、やはりアディンセル嬢がお気に入りなんだ。でも彼女、下心が見え透いていないかい?」
「構わないよ、お互い好都合さ。あの美しさはどんな宝石よりも価値がある、連れ歩くには申し分ないね」
ぴくり、とヴェスのこめかみが動く。人を宝飾品のように扱う言葉に反吐が出る。
しかし傲慢な貴族令息の口から、それ以上に反応せざるを得ない言葉が続いた。
「なるほどねぇ。だけど、あの間抜けなアディンセル子爵の娘だよ? 玉の輿に乗ることしか考えていなくて、頭の中はすっからかんかもしれないよ」
「ああ……君の父君が唆した、お人好しの子爵だっけ。脱税の罪に問われる直前にコロリと死んだんだろう? 強運の持ち主じゃないか」
冷笑を含んだ蔑みの言葉に、ヴェスが手をついていた天井板がミシッと小さく悲鳴を上げた。
かすかな音は階下には聞こえない。トレイシーは聴衆がいるとは微塵も気付かずに、ミルクティーで口を潤してニヤリと口角を上げた。
「いいじゃないか、女なんて中身がない方が都合がいいよ。うまくやればアディンセル子爵家領も僕のものにできる。あそこは気候がいいから麦の栽培が盛んで、隣国との交易路の中継地点もある。とても魅力的な土地なんだよ」
「そんなことまで考えていたのかい? すっかり結婚する気満々じゃないか!」
フィリップが興奮した声を上げると、トレイシーはふんぞり返って脚を組み直した。
「僕のやり方に文句をつけるようなら、領地だけ奪ってさっさと捨てればいい。あの美しさだって永遠じゃないだろうしね。なあに、爵位にしか目がない軽い女、どうせ父親に似て間が抜けているんだろう。簡単なことさ」
男二人の下卑た高笑いが天井を突き抜けてくる。
ヴェスは二人の談笑が終わるまで、その場で息を殺し続けた。きつく握りしめた拳を叩きつけたくなる衝動を、必死で抑えながら。




