第11話 茶番劇
ロレッタは天蓋付きのベッドに寝転がりながら、手元の小さな文字を追っていた。
そろそろ本を閉じて起き上がらなくてはならない。でも今、とてもいいところなのだ。ああこんな姿、誰にも見せられない――
「パンツ見えてっぞ」
「きゃあああああ!!!!」
「嘘」
悲鳴をあげて飛び起きたロレッタの視線の先には、何食わぬ顔で朝の紅茶の準備をするヴェスの姿があった。
ロレッタは慌ててワンピースの裾で膝を隠し、真っ赤な顔で睨みつける。
「み、見たの!? 見たのね!?」
「嘘っつっただろ。そもそもガキの下着なんか見たところでそそられるかよ」
「ガ、ガキですって!? というか貴方、いつ部屋に入ったのよ!? ノックもせずに勝手に淑女の部屋に入るなんて破廉恥極まりないわ!」
「ノックしたしお前も返事したぜ、生返事だったけどな」
「そ、そうだったかしら……?」
ロレッタは熱くなった顔を手で扇ぎながらベッドから足を下ろし、床に転がり落ちた本を拾い上げた。
朝食の後、少し時間があるからと、昨晩途中まで読んだ大衆小説につい手を伸ばしてしまったのだ。小説に夢中になると周りの音が聞こえなくなってしまう。ロレッタ自身自覚している、幼い頃からの悪い癖だ。
この男の足音がしなさすぎるのも問題なのだ、とロレッタは心の中で責任転嫁する。長年の泥棒業が体に染み付いているのか、ヴェスは足音だけでなくあらゆる動作に音がなく、息をするように気配を消していた。
「お前、本当にその恋愛小説とやらが好きだな……何回読んでんだ?」
「これは新刊なの! 待ちに待った最新刊なのよ!? 罪の疑いをかけられて幽閉されたヒロインを、紺碧の騎士様が塔の上まで助けに来て――」
「へー」
「ちょっとその返事、話聞いてないでしょう!?」
「紅茶冷めるぞ」
ヴェスがテーブルの上に湯気の立ち上るティーカップを置く。猫脚のアンティークのテーブルには、手紙が一通置かれていた。
「大衆小説もいいが、今夜は待ちに待ったオペラの観劇じゃないのか」
その手紙こそ、トレイシーから届いたオペラの招待状だった。ロレッタは招待状の隣に読みかけの小説を置いて、アンティークチェアに腰掛ける。
「わかってるわ。ストーリーは把握してるし、見どころもリサーチ済みよ。でもこの演目、恋愛悲劇なのよねぇ……」
ロレッタは膝の上で頬杖をつき、はあとため息をついた。
ヴェスが招待状をひょいと持ち上げる。書かれた演目を見ても、オペラに無縁のヴェスにはストーリーの見当もつかなかった。
「知ってる?」
「知らねえな」
「とある島国の女性が外国の軍人と恋に落ちるの。でも軍人は祖国に帰ってしまって、女性は信じて待ち続けるんだけど、軍人は自国で新しい奥さんを作っちゃうのよね。ショックを受けた女性が自害して物語は終わるの」
「うっわ、最低だな」
「ちょっと、オペラの不朽の名作なのよ? 間違っても外でそんなこと言わないでよね」
ロレッタはヴェスの手から招待状を取り上げ、封筒の中に丁寧に仕舞った。
「お前だって嫌そうな声出してただろ」
「オペラは楽しみだし、トレイシーに招待されたのは嬉しいわ。どうせならハッピーエンドの演目が良かったってだけよ」
そう言ってロレッタが紅茶を口にするのを横目に、ヴェスはテーブルに置かれた小説の表紙を盗み見た。きっとこちらは恋人同士が大恋愛の末に結ばれるような物語なのだろう。表紙に描かれた紺碧の騎士様とやらはずいぶんと爽やか且つスラリとしていて、ロレッタの意中(ただし政略上)の相手との落差に吹き出しそうになる。
「ね、ねぇ。それより……」
ティーカップをテーブルに戻したロレッタが、もじもじと落ち着きなく言い淀む。そして意を決したようにパッと顔を上げ、ヴェスを見た。
「わたくし、女性の魅力が足りないかしら!?」
「…………は?」
「だって、さっきガキって言ったじゃない!」
あっけにとられたヴェスに対し、ロレッタは真剣そのものだった。
ヴェスは口をぽかんと開けてしばらく声を失っていたが、やがて大きく肩を落とした。
「あのなあ、四十超えたおっさんの意見なんて聞いてどうするよ」
「ティルソンより若いじゃない」
「いや比較対象」
「バーサは何を着ても褒めるばかりだし、他の使用人も絶対に悪いことは言わないもの」
「そりゃまあ、そうだろうな」
「トレイシーは二つとはいえ年上だもの、やっぱり大人っぽい女性に惹かれるわよね……」
ロレッタがしゅんと肩を落とす。社交界でも堂々と振る舞い、自信家で高慢に見えていた貴族令嬢は、どうやら真剣に悩んでいるらしい。意中の相手から観劇に誘われたにも関わらず、だ。
執事になれと命じた時の威勢はどこへいったのやら。ヴェスはやれやれと肩をすくめた。
「……客観的な立場から言うと」
ヴェスがスラックスのポケットに手を突っ込んで口を開く。ロレッタがおそるおそる顔を上げた。
「舞踏会でもお前は全然引けを取ってないし、むしろいい意味で目立ってたと思う。お前よりよっぽどガキみたいな、それこそドレスに着られてるようなやつなんて山ほどいたぜ。だからそのへんは気にしなくていいんじゃないか」
「本当!?」
「客観的に、って言っただろ」
「そ、そうよね。よかった、安心したわ」
ホッと表情を緩め、再び紅茶に手を伸ばすロレッタを、ヴェスは複雑な心境で見つめていた。
よかった?
嘘は言っていない。だが、こんなやり取りのどこにいい要素などあるのだろうか。
すべてが復讐のための、茶番劇だというのに。
◇◇◇
その夜、歌劇場は熱気に包まれていた。客席は満席。思い思いに着飾った紳士や貴婦人たちが開演を心待ちにしている。
ロレッタとトレイシーは三階側面のボックス席で会話を楽しんでいた。ヴェスは付き添いとして、二人を離れた位置から見守っている。果たして睡魔に勝てるだろうか――それだけを心配するヴェスは、すでに二、三度、あくびを噛み殺していた。
「アディンセル嬢、今日も一段とお美しいですね。ステージよりも貴女を見てしまいそうだ」
「まあ、トレイシー様ったらお上手ですこと」
だらしなく鼻の下を伸ばすトレイシーに、今宵もロレッタは気後れすることなく上品に受け応える。ヴェスに太鼓判を押されたことで、ロレッタはいつにも増して自信に満ち溢れていた。
だけど油断せず、気を引き締めて。
ロレッタがオペラの話題でも振ろうかと口を開きかけたとき、先にトレイシーが話を切り出した。
「ところで、アディンセル子爵領は今、ご親戚の方が領主を務めておられるんでしたね」
これまでトレイシーと交わしたことのない意外な話題に、ロレッタは面食らった。
「え、ええ。父の従兄弟が代理をしておりますわ」
「元々は芸術分野の仕事をされていた方だそうですね。領地経営には、さぞ苦労されているのではありませんか?」
「ええ、まあ、慣れない仕事に苦労しているようですが、父や祖父が築いた基盤のおかげで領民からは好意的に受け入れられていると聞いておりますわ」
「そうですか。それならば安心ですね」
「ええ……」
トレイシーはニコニコとしたまま、うんうんと頷いた。しかしロレッタは会話の意図がわからず受け答えに迷う。
もしかして、結婚を視野に入れたものなのだろうか。妻となる者の出身や親族は当然気になるだろう。トレイシーは歴史あるフロックハート伯爵家の優秀な長男だ。ことによっては、正式な領主が不在のアディンセル領の統治にも協力してくれるのかもしれない。
だが、ロレッタの結婚目的は復讐であり、真のターゲットはオトウェイ子爵だ。フロックハート家に恨みはないが、もし復讐が成功すれば直系であるフロックハート伯爵家への打撃は避けられない。
無実の人間を、しかも自分に好意を抱いているかもしれない人を、巻き込もうとしている。そう考えると、ちくりと胸が痛む。
「そろそろ始まるようですよ」
トレイシーがステージを見て言った直後、オペラ開演のベルが鳴り響いた。




