第9話 沈黙の選択
店の外は静かだった。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、夜の空気は冷えている。
遠くで車の走る音がする。
居酒屋の看板だけが、赤く滲んで見えた。
その壁際で、広岡翔平は座り込んでいた。
呼吸が浅い。
肩が上下するたびに、喉の奥から湿った音が漏れる。
嘔吐したせいで口元が汚れている。
だが本人には、それを拭う力すら残っていなかった。
小畑辰巳は、その姿を見下ろしていた。
胸の奥がざわついている。
嫌な汗が背中を流れる。
「……水、飲むか」
口から出たのは、また曖昧な言葉だった。
広岡は反応しない。
数秒後、ゆっくり目を開ける。
焦点が合っていない。
「……ひろ、おか?」
田中平蔵が顔を覗き込む。
広岡の目がわずかに動く。
しかし返事はない。
その瞬間、田中の顔色も少し変わった。
さすがにおかしい。
今までの“酔っ払い”とは違う。
だが誰も、「救急車を呼ぶ」と断言しない。
責任を背負いたくないからだ。
もし大ごとになったら。
もし会社に知られたら。
もし警察沙汰になったら。
その恐怖が、全員の判断を鈍らせていた。
白石夏美はスマホを握っていた。
119。
その番号を押すだけ。
それだけなのに、指が動かない。
もし自分の勘違いだったら?
もし騒ぎすぎだったら?
その不安が、行動を止める。
だが同時に、別の感情も膨らんでいた。
(このままだと死ぬかもしれない)
その考えを、誰も口にできない。
口にした瞬間、現実になるからだ。
「広岡、立てるか?」
小畑が肩を支える。
広岡の身体がぐらりと傾く。
力がない。
完全に。
その重みを感じた瞬間、小畑の中で何かが崩れ始める。
(なんでこんなになってる)
だが、その問いは本来もっと早く向けるべきだった。
自分たちに。
広岡のスマホがまた震えた。
画面が光る。
【直美】
妻からだった。
《まだ?》
《大丈夫?》
《返信ないけど酔ってる?笑》
メッセージが増えていく。
その画面を見た瞬間、白石の胸が締め付けられる。
まだ、この人は帰ってくると思っている。
いつも通り。
何も知らずに。
小畑もその画面を見てしまった。
その瞬間、急に現実感が増す。
広岡には待っている人がいる。
家庭がある。
人生がある。
その当たり前の事実が、今さら小畑の胸に重く落ちた。
「……タクシー呼ぶか」
小畑が低く言う。
救急車ではなく、タクシー。
最後まで“事件化しない方法”を選ぼうとしていた。
田中がすぐ頷く。
「それがいいっすよ」
市村も続く。
「家帰って寝れば回復するって」
その言葉を、全員が信じたかった。
信じなければ、自分たちが危険なことをしたと認めることになる。
佐伯光だけは、完全に顔色を失っていた。
スマホの検索画面には、
【急性アルコール中毒 呼吸が浅い】
と表示されている。
そこには、
《命に関わる状態です。すぐ救急要請してください》
とはっきり書かれていた。
佐伯の喉が震える。
「……救急車、呼んだ方が」
今度ははっきり言った。
その瞬間、小畑の顔が曇る。
図星だった。
呼ぶべきだ。
本当は。
だが、もう遅い気もしている。
もし警察が来たら。
何を飲ませたか聞かれる。
誰が勧めたか。
動画。
会話。
全部残っている。
その恐怖が、小畑の胸を締め付ける。
“自分が人を殺しかけている”。
その可能性を、人間は簡単には受け入れられない。
「……もう少し様子見る」
小畑はそう言った。
その言葉が、この夜の決定になった。
誰も反論しない。
白石も。
田中も。
市村も。
全員が沈黙を選ぶ。
止めなかったのではない。
止められなかった。
空気。
責任。
恐怖。
全部が絡み合い、誰も決断できなくなっていた。
広岡の身体が小さく震える。
呼吸音が変わる。
浅い。
弱い。
途切れそう。
小畑は初めて、本気で怖くなった。
「おい、広岡」
頬を叩く。
反応が薄い。
目が開かない。
「……おい!」
声が強くなる。
広岡の口がわずかに動く。
「……す、みま……」
最後まで謝ろうとしていた。
その瞬間、小畑の頭の中で何かが切れた。
“まずい”。
今度こそ完全に理解する。
これはもう、ただの酔いじゃない。
しかし理解した瞬間、別の感情が襲う。
遅すぎる。
もう。
市村の顔から血の気が消えていた。
田中も黙っている。
誰も笑わない。
さっきまでの空気が全部消えていた。
代わりにあるのは、恐怖だけだった。
タクシーが到着する。
運転手が窓を開ける。
「お客さん、大丈夫ですか?」
その質問に、誰もすぐ答えられない。
小畑は広岡を抱え上げる。
身体が異様に重い。
いや、違う。
力が抜けきっている。
生気がない。
その感覚が、小畑の背筋を凍らせる。
タクシーの後部座席へ広岡を乗せる。
頭がぐったり揺れる。
白石が震える声で言った。
「……病院、行った方が」
小畑は数秒黙った。
そして、運転手に言った。
「……近くの救急病院、お願いします」
その言葉が出た時には、もう全員わかっていた。
これは“いつもの飲み会”じゃない。
取り返しのつかない場所まで来てしまっていることを。




