第10話 帰れない人間
タクシーの車内には、アルコールと胃液の臭いが充満していた。
運転手は何度もバックミラーを見ている。
後部座席で広岡翔平はぐったりと横たわっていた。
頭が窓にもたれ、呼吸が不規則に揺れている。
小畑辰巳は隣に座り、その肩を支えていた。
冷たい。
異様なほど。
その体温を感じた瞬間、小畑の酔いが急速に引いていく。
「広岡」
呼びかける。
反応はない。
「おい、広岡」
もう一度。
数秒後、喉の奥で小さく音が鳴る。
返事になっていない。
白石夏美は助手席でスマホを握り締めていた。
震えている。
指先が。
救急病院へ向かう道が、異様に長く感じた。
赤信号。
減速。
車内に流れるラジオ。
全部が現実感を壊していく。
数十分前まで、ただの飲み会だった。
笑っていた。
動画を撮っていた。
「潰れろ」と笑っていた。
その延長線上に、今がある。
小畑はその事実を理解し始めていた。
そして理解すればするほど、頭の中に別の声が響く。
(俺がやったのか?)
その問いから逃げようとしてしまう。
酒のせい。
ノリ。
みんなやっていた。
広岡も飲んだ。
色んな言い訳が浮かぶ。
だが全部、その場しのぎだった。
小畑自身が、一番わかっていた。
広岡が何度も断っていたことを。
「飲めない」と言っていたことを。
それでも、自分が空気を進めたことを。
「もう少しで着きますから」
運転手が言う。
声が固い。
プロとして冷静を装っているが、異常事態だと理解している。
広岡の呼吸が、さらに弱くなる。
「おい!」
小畑が身体を揺する。
反応がない。
その瞬間、小畑の胸に初めて“死”が現実として浮かぶ。
死ぬ。
このまま。
その想像をした瞬間、全身の血が冷える。
「広岡!」
今度は強く叫ぶ。
白石が振り向く。
顔面蒼白だった。
「呼吸……浅くない……?」
小畑は答えられない。
怖くて確認できない。
もし本当に危険だったら。
もしもう手遅れだったら。
それを認めた瞬間、自分の人生も終わる気がした。
病院へ到着する。
タクシーが止まる。
小畑が扉を開ける。
「すみません!人が……!」
声が裏返る。
救急外来のスタッフが走ってくる。
ストレッチャー。
慌ただしい足音。
「意識は!?」
「酒を……かなり……」
「どれくらい飲ませたんですか!?」
その質問に、小畑は詰まる。
“飲ませた”。
医療側は最初からそう認識している。
その言葉が、小畑の胸に突き刺さる。
広岡が運ばれていく。
白い照明。
閉まる扉。
急に静かになる。
田中と市村も遅れて病院へ来ていた。
二人とも顔色が死んでいる。
もう誰も喋らない。
さっきまでの勢いが完全に消えていた。
沈黙だけがある。
佐伯光は壁際で座り込み、ずっとスマホを見ていた。
検索履歴。
急性アルコール中毒。
死亡例。
致死量。
もっと早く言えばよかった。
その後悔が、頭の中で繰り返される。
白石は突然立ち上がった。
「奥さんに……連絡しないと……」
その言葉で、全員の顔がさらに強張る。
広岡直美。
待っている人。
帰りを信じている人。
小畑はその存在から、ずっと目を逸らしていた。
白石がスマホを操作する。
コール音。
数秒後、女性の明るい声が聞こえた。
『もしもし?』
その声を聞いた瞬間、白石の喉が詰まる。
『広岡ですか?』
「……あの、会社の白石です」
『あ、こんばんは!翔平、酔ってます?』
明るい声。
何も知らない声。
その無防備さが、病院の空気をさらに重くする。
白石の目に涙が浮かぶ。
「……少し、体調を崩して病院に……」
沈黙。
電話の向こうで空気が変わる。
『……え?』
その一言だけで、小畑の胸が潰れそうになる。
自分たちは、何をしてしまったんだ。
その現実が、ようやく輪郭を持ち始める。
しばらくして、医師が出てくる。
表情が固い。
その顔を見た瞬間、小畑は理解してしまった。
良くない。
「ご家族の方は?」
医師が聞く。
「向かってます……」
白石が答える。
医師は小さく頷く。
「急性アルコール中毒です。かなり危険な状態でした」
“でした”。
過去形。
その言葉に、小畑の呼吸が止まりそうになる。
「現在、蘇生処置を行っています」
蘇生。
その単語が現実を突きつける。
死にかけている。
本当に。
田中が壁にもたれ、そのまま座り込む。
市村は口元を押さえている。
小畑だけが立ったままだった。
動けない。
頭が真っ白だった。
数十分前まで、自分は笑っていた。
広岡に酒を渡していた。
「いけるだろ」と言っていた。
その記憶が、急に暴力みたいに頭へ流れ込む。
扉が開く。
広岡直美が病院へ駆け込んでくる。
髪が乱れている。
息が切れている。
「翔平は!?」
その声で、空気が完全に変わる。
現実になる。
ただの飲み会ではなくなる。
人の人生になる。
直美の視線が、小畑に止まる。
「……何があったんですか?」
小畑は答えられない。
喉が動かない。
その沈黙だけで、直美は何かを察し始める。
数分後。
処置室の扉が再び開く。
医師が出てくる。
その顔を見た瞬間、白石が泣き崩れた。
医師は静かに言った。
「……残念ですが」
その先を、小畑は聞けなかった。
耳鳴り。
視界が揺れる。
広岡直美の叫び声だけが、病院の廊下に響き続けていた。
その夜。
一人の男が死んだ。
そして同時に、小畑辰巳の人生も終わり始めていた。




