第1話 朝のニュース
翌朝。
小畑辰巳は、自宅の床で目を覚ました。
頭が痛い。
胃が重い。
喉が焼けるように乾いている。
だが、それ以上に重かったのは胸の奥だった。
視界に入る天井が妙に白い。
静かだった。
昨夜の病院の光景が、断片的に蘇る。
白い廊下。
直美の泣き声。
医師の「残念ですが」という声。
そして、動かなくなった広岡翔平。
小畑は反射的に起き上がる。
吐き気が込み上げる。
トイレへ駆け込み、胃液だけを吐いた。
苦い。
胃の奥が空っぽなのに、身体だけが拒絶反応を続けている。
洗面台の鏡を見る。
顔色が悪い。
目が充血している。
その顔を見た瞬間、小畑は初めて思った。
(俺が殺したのか……?)
昨夜から何度も頭に浮かんでは、無理やり押し戻してきた言葉。
殺した。
その単語だけは認めたくなかった。
酒の事故。
急性アルコール中毒。
飲み会の延長。
そういう曖昧な言葉に逃げたかった。
だが、広岡は死んだ。
それだけは変わらない。
スマホが震えていた。
通知が異常な数、溜まっている。
会社のグループチャット。
個人メッセージ。
不在着信。
小畑は恐る恐る開く。
【大丈夫ですか?】
【昨日の件、どうなるんですか】
【ニュースになるかもしれません】
【警察が来てるらしい】
呼吸が浅くなる。
ニュース。
その言葉が嫌だった。
自分たちの飲み会が、“社会の事件”になる。
その現実感が急に増す。
テレビをつける。
朝の情報番組。
天気予報。
芸能ニュース。
そして数分後、画面下に速報テロップが流れた。
《会社飲み会後に男性死亡 急性アルコール中毒か》
小畑の心臓が強く跳ねる。
リモコンを握る手が震える。
画面が切り替わる。
昨夜の病院前。
救急車。
ぼかしの入った居酒屋の映像。
アナウンサーが淡々と読み上げる。
「昨夜、大阪市内の飲食店で会社の飲み会に参加していた26歳男性が搬送先の病院で死亡しました」
26歳。
その数字だけで、妙に現実感が出る。
若い。
本来なら死ぬ年齢じゃない。
「警察は、飲酒の強要があった可能性も含め調査しています」
その瞬間、小畑の呼吸が止まった。
飲酒の強要。
その言葉が、昨夜の空気を一気に別物へ変える。
ただの飲み会じゃない。
“加害”として見られている。
テレビには、居酒屋から出てくるタクシーの映像が映っていた。
ぼやけているが、自分たちだとわかる。
小畑はテレビを消した。
耐えられなかった。
静かな部屋。
しかし頭の中だけがうるさい。
「男見せろって!」
「いけるじゃん!」
「潰れろ!」
昨夜の声が何度も蘇る。
全部、自分たちの声だった。
スマホが鳴る。
母からだった。
小畑は出られなかった。
鳴り続ける。
止まる。
また鳴る。
ようやく通話を取る。
「……もしもし」
『辰巳!?ニュース見たんだけど!?』
母の声は震えていた。
『あんたじゃないよね!?』
その言葉が胸に刺さる。
まだ母は、“息子がそんなことをするはずない”と思っている。
小畑は答えられない。
沈黙。
それだけで十分だった。
電話の向こうで息を呑む音がする。
『……辰巳?』
「……飲み会で……」
声が掠れる。
「後輩が……死んだ」
沈黙。
長い沈黙。
母はしばらく何も言わなかった。
そして小さく言う。
『嘘でしょ……』
その声に、小畑は初めて現実感を持った。
本当に人が死んだ。
自分の関わった飲み会で。
母は続ける。
『あんた、何したの……?』
小畑は答えられない。
何をした?
酒を勧めた。
煽った。
止めなかった。
見ていた。
全部だ。
全部関わっている。
しかし、どこからが“殺した”になるのかが分からない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
小畑の身体が固まる。
もう一度。
ピンポーン。
強く。
嫌な予感が全身を走る。
ドアスコープを覗く。
スーツ姿の男が二人。
警察だった。
頭が真っ白になる。
母の声がスマホから聞こえる。
『辰巳?どうしたの!?』
小畑は答えず、通話を切った。
呼吸が苦しい。
逃げたい。
だが逃げられない。
昨夜、広岡はもっと苦しかったはずなのに。
その考えが急に浮かび、胸が締め付けられる。
チャイムが再び鳴る。
「大阪府警です」
低い声。
現実だった。
小畑は震える手でドアを開ける。
刑事の一人が手帳を見せる。
「小畑辰巳さんですね」
「……はい」
「昨夜の件で、お話を伺いたい」
昨夜の件。
その曖昧な表現の中に、“死亡”が含まれている。
小畑は言葉を失う。
刑事は淡々としていた。
感情を見せない。
それが逆に怖かった。
「任意同行をお願いできますか」
任意。
そう言われても、小畑には拒否できる気がしなかった。
後ろめたさが、身体を重くする。
玄関を出る。
外は快晴だった。
昨日と変わらない朝。
通学する学生。
犬の散歩。
普通の世界。
なのに自分だけが、急に別の場所へ落ちた気がした。
マンションの廊下を歩きながら、小畑は思う。
昨夜、あの時。
最初の一杯を止めていれば。
途中で帰らせていれば。
救急車をすぐ呼んでいれば。
何度も分岐点があった。
その全部を、自分たちは空気で流した。
そして人が死んだ。
パトカーへ乗り込む瞬間、小畑のスマホに通知が入る。
ニュース記事。
《飲み会で26歳男性死亡 アルハラか》
その文字を見た瞬間、小畑は初めて、自分が“加害者側”に立っていることを完全に理解した。




