第6話 二十六歳のまま
九年目の夏。
暑さは年々厳しくなっている気がした。
小畑辰巳は四十五歳になっていた。
鏡を見ると分かる。
白髪が増えた。
目元の皺も深くなった。
若い頃のような無理はできない。
階段を上るだけで息が上がることもある。
人は確実に歳を取る。
それを否定することはできない。
休日の午後。
小畑は実家を訪れていた。
母も歳を取った。
歩く速度が遅くなった。
以前より物忘れも増えた。
だが元気だった。
仏壇に線香を上げる。
父の写真。
祖父母の写真。
その横に、見慣れた仏花。
母が言う。
「もう九年になるのね」
小畑は頷く。
母も広岡翔平のことを知っている。
裁判の時からずっと。
母は静かに続ける。
「不思議ね」
「何が」
「あなたは歳を取るのに、その子は取らない」
小畑は何も言えなかった。
その通りだった。
翔平は二十六歳のまま。
永遠に二十六歳。
その先がない。
結婚生活も。
子育ても。
老後も。
存在しない。
夜。
帰宅すると田中平蔵から連絡が来る。
《健康診断引っかかりました》
小畑は少し笑う。
《何だそれ》
すぐ返信。
《血圧っす》
《歳っす》
思わず苦笑する。
昔なら飲み比べの話をしていた男が、今は血圧の話をしている。
田中から続く。
《翔平くんってさ》
突然だった。
《ずっと二十六なんすよね》
小畑の指が止まる。
偶然とは思えなかった。
今日、同じことを考えていた。
《そうだな》
送信。
田中から返事。
《なんかズルいっすよね》
少しして。
《俺らだけ老ける》
その文章を見て、小畑はしばらく考える。
ズルい。
その表現は不思議だった。
しかし分かる気もした。
翔平は変わらない。
だから記憶の中でも若い。
失敗しない。
老いない。
弱らない。
永遠に二十六歳。
だがそれは幸運ではない。
人生を失った結果だ。
数日後。
白石夏美から写真が届く。
娘が幼稚園の制服を着ている。
笑顔。
無邪気な笑顔。
《来年小学生です》
小畑は画面を見る。
時間が流れている。
確実に。
《早いな》
返信。
白石から返事。
《本当に》
そして続く。
《翔平さんが見たら驚くでしょうね》
小畑はその言葉を何度も読む。
翔平が見たら。
あり得ない仮定。
それでも自然に出てくる言葉。
亡くなった人は消えない。
会話の中に残る。
比較の中に残る。
想像の中に残る。
夜。
小畑は久しぶりにアルバムを開く。
裁判の資料ではない。
会社の古い写真。
忘年会。
社員旅行。
現場作業。
その中に翔平がいる。
笑っている。
若い。
そしてやはり男前だった。
写真を見つめながら思う。
自分はこの人を知っていただろうか。
本当に。
酒が弱いことは知っていた。
断ることも知っていた。
しかし、それ以外は。
何を好きだったのか。
どんな将来を考えていたのか。
どんな夫だったのか。
どんな父親になろうとしていたのか。
ほとんど知らない。
知ろうともしなかった。
そのことが今でも胸に残る。
窓の外では蝉が鳴いている。
九年。
長い時間。
それでも終わらない。
なぜなら、
亡くなった人は歳を取らないからだ。
残された人間だけが歳を取り、
その差を毎年見せつけられる。
それが、
失われた時間の大きさだった。




