第5話 あの日を知らない人たち
八年目の春。
会社の会議室に、新入社員たちが集まっていた。
小畑辰巳は後方の席に座っている。
教育担当の補助として呼ばれただけだ。
前では若い社員たちが自己紹介をしている。
二十二歳。
二十三歳。
広岡翔平が亡くなった頃より若い人間もいる。
その事実に、小畑は時々時間の流れを実感する。
「趣味は旅行です」
「休日はゲームをしています」
「お酒が好きです」
笑い声。
和やかな空気。
普通の光景。
誰も知らない。
この会社で起きた出来事を。
もちろん知らなくていい。
知らないまま働く方が幸せだ。
しかし小畑は思う。
記憶は消えていく。
人が入れ替わればなおさらだ。
昼休み。
若手社員の一人が話しかけてくる。
「小畑さんって長いんですよね」
「まあな」
「昔の会社ってどんな感じだったんですか」
何気ない質問だった。
悪意はない。
興味本位でもない。
ただの雑談。
小畑は少し考える。
そして答える。
「今より飲み会が多かったな」
若手は笑う。
「ああ、聞きますね」
「昔は大変だったって」
小畑はそれ以上語らない。
語れない。
その社員は知らない。
目の前にいる男が、その「昔」の象徴の一人だったことを。
夕方。
田中平蔵から連絡が来る。
《若いの増えましたね》
小畑は返す。
《増えたな》
田中も管理職になっていた。
昔なら想像できなかった。
《あいつら事件知らないっすよ》
小畑は画面を見る。
《そうだろうな》
少しして田中から返信。
《それでいいんすかね》
難しい問いだった。
小畑は少し考えて送る。
《知らなくていい》
既読。
だが田中は続ける。
《でも忘れていいわけじゃないっすよね》
小畑は返せなかった。
その通りだったからだ。
夜。
白石夏美から写真が送られてくる。
小さな子供。
まだ一歳にもなっていない。
《娘です》
短い文章。
小畑は思わず笑みを浮かべる。
《かわいいな》
白石から返信。
《ありがとうございます》
少しして。
《この子が大人になる頃には、誰も知らないんでしょうね》
小畑はその一文を見つめる。
誰も知らない。
確かにそうかもしれない。
事件は歴史になる。
歴史は記録になる。
記録はやがて棚の奥へしまわれる。
それが自然だ。
しかし。
本当に何も残らないのだろうか。
翌日。
社内研修の資料を見ていた小畑は、一つのページで手を止めた。
そこには短い一文が書かれていた。
---
「飲酒を含む懇親の場においても、個人の意思を尊重すること」
---
ただそれだけ。
誰の名前もない。
事件名もない。
説明もない。
しかし小畑は知っている。
この一文は突然生まれたわけではない。
誰かの失敗。
誰かの後悔。
誰かの死。
その積み重ねの上にある。
小畑は資料を閉じる。
窓の外を見る。
春の光が差している。
新入社員たちは笑っている。
あの日を知らない人たち。
その姿を見ながら、小畑は思う。
忘れられることと、
何も残らないことは違う。
名前は消える。
記憶も薄れる。
だが、
そこから生まれた教訓だけは、
形を変えて生き続けることがある。
もしかすると。
それが償いの一つの形なのかもしれなかった。




