第8話 交わらない線
梅雨の気配が近づいていた。
空気が重く、湿度だけが増していく季節。
小畑辰巳は、傘を持つようになった。
使うかどうか分からないものを持ち歩く感覚が、今の生活に似ている。
会社では変化が一つあった。
会議の一部参加制限が緩和されたことだ。
ただし条件付き。
発言権は限定。
議事録上の扱いも簡略化。
「参加しているが中心ではない」という位置。
それは復帰ではなく、再配置だった。
会議室に入ると、空気が少しだけ張りつめる。
誰も露骨には態度を変えない。
しかし、距離は正確に測られている。
資料が配られる。
小畑はそれを受け取る。
ページをめくる音だけが部屋に響く。
議題は通常業務。
数字。
進捗。
計画。
それなのに、自分だけが別の時間にいるような感覚がある。
会議が進む中で、ある社員が発言する。
「再発防止の観点ですが」
その言葉で、小畑の指がわずかに止まる。
続く言葉。
「飲み会や懇親の場の運用見直しも必要では」
誰も否定しない。
誰も賛成もしない。
ただ、空気が少しだけ変わる。
それは小畑のための議題ではない。
しかし、小畑の過去と無関係でもない。
会議後。
廊下で田中平蔵からメッセージ。
《会議出たんすね》
小畑は返す。
《出た》
すぐに既読。
少しして田中。
《なんか変な感じっすよね》
小畑は歩きながら読む。
《何が》
田中から返信。
《俺らのせいでルール増えてる感じ》
間。
《でも、俺らだけじゃない気もするんすよね》
その言葉に、小畑は少し考える。
そして返す。
《俺らはきっかけだろうな》
田中はすぐ返す。
《きっかけって言い方、まだ優しいっすね》
既読。
それ以上は続かない。
夕方。
白石夏美からメッセージ。
《最近、飲み会誘われなくなりました》
続けて。
《ちょっとホッとしてます》
さらに一文。
《でも、輪の外にいる感じもあります》
小畑は画面を見つめる。
輪。
その言葉が重い。
小畑は返す。
《線が引かれたんだと思う》
白石からすぐ返事。
《誰が引いたんでしょうね》
小畑は答えられない。
引いたのは誰か一人ではない。
場そのものだった。
あるいは、結果だった。
夜。
帰宅。
窓の外で雨が降り始める。
小さな音。
規則的な音。
机に座る。
手紙はまだ引き出しの中。
書きかけのまま。
その横に新しいメモを置く。
「線はどこにあったのか」
その問いは、もう答えを求めていない。
ただ、残り続けている。
田中から最後のメッセージ。
《でもさ》
《線って、引かれる前は見えないっすよね》
小畑はそれを読んで、しばらく止まる。
そして短く返す。
《そうだな》
既読。
返信はない。
雨の音だけが部屋に残る。
交わらない線。
それは人と人の間にあるのではない。
気づかないまま通り過ぎた場所に、
あとから浮かび上がるものだった。




