第9話 加害者という言葉
朝、玄関を開けた瞬間、小畑辰巳は視線を感じた。
マンションの通路。
隣の部屋のドアがわずかに開いている。
中年の女性がこちらを見て、すぐ閉めた。
偶然かもしれない。
でも、小畑にはそう思えなかった。
エレベーターに乗る。
鏡に映る自分の顔が知らない人間に見える。
疲れ切った目。
無精ひげ。
背中が少し丸まっている。
スマホが震える。
ニュース通知。
《飲酒強要問題 企業文化への波紋広がる》
自分の名前は出ていない。
それでも分かる。
“あの件”として世の中に広がっている。
コンビニへ入る。
店員が一瞬こちらを見る。
ただそれだけ。
なのに小畑は、自分が“知られている側”になった気がする。
レジ横の週刊誌。
そこに見出し。
《若手社員死亡 飲み会の実態》
小畑は視線を逸らす。
逃げるように店を出る。
外の空気が重い。
スマホが鳴る。
母からだった。
「辰巳、大丈夫?」
その声だけで、胸が苦しくなる。
「……うん」
嘘だった。
母は少し黙ってから言う。
「近所でね、少し噂になってるみたいで……」
小畑は目を閉じる。
来た。
ついに外側まで広がった。
母は慌てて続ける。
「でもお母さん、ちゃんと説明したから!」
説明。
何を?
息子は悪くないと?
事故だったと?
小畑は静かに聞く。
母は震える声で言う。
「辰巳はそんな人じゃないって……」
その言葉が刺さる。
“そんな人”。
では今の自分は何だ。
小畑は低く言う。
「母さん」
「うん……?」
「俺、“そんな人”なんだよ」
電話の向こうが静かになる。
「人を死なせた側なんだ」
その瞬間、母の息を呑む音が聞こえる。
小畑は続ける。
「最近、“加害者”って言葉が頭から離れない」
初めて口にした。
加害者。
今までは避けていた言葉。
関係者。
当事者。
責任者。
いくらでも曖昧にできた。
でも、本質はそこだった。
母が小さく言う。
「でも……辰巳は殺そうとしたわけじゃ……」
小畑は遮らない。
ただ静かに返す。
「翔平は死んだ」
沈黙。
「それだけは変わらない」
電話の向こうで、母が泣き始める。
小畑は何も言えない。
慰める資格がない気がした。
電話を切る。
空を見上げる。
曇っている。
昔なら、この時間には仕事へ向かっていた。
後輩と笑っていた。
飲み会の話をしていた。
その全部が遠い。
スマホにまた通知。
白石夏美。
《ネットに書かれてました》
リンク付き。
小畑は開く。
匿名掲示板。
《飲ませて殺した連中》
《これもう傷害致死だろ》
《断ってるのに飲ませるとか異常》
言葉が並ぶ。
知らない人間たちの怒り。
でも、その怒りを完全には否定できない。
市村からも連絡。
《俺、実家帰れなくなりました》
田中。
《親父に“お前何やったんだ”って言われました》
全員が、社会との境界を失い始めている。
小畑はベンチに座る。
風が吹く。
その中で、ようやく理解する。
“加害者”という言葉は、罰ではない。
立場だ。
一生消えない側の名前だ。
そしてその言葉は、
法廷より先に、
自分自身の中で確定し始めていた。




