第7話 母の否定
小畑辰巳が実家へ向かったのは、逃げ場所を探していたからかもしれなかった。
駅から歩く道は変わっていない。
子供の頃、何度も通った道。
古い商店。
閉まったクリーニング屋。
角の自販機。
全部そのままなのに、自分だけが違う。
玄関を開ける。
「ただいま」
声が少しかすれる。
奥から母が出てくる。
小畑恵子。
六十三歳。
小柄で、昔から声の大きい人だった。
辰巳の顔を見るなり、表情が崩れる。
「辰巳……!」
抱きしめようとして、途中で止まる。
息子が別人に見えたのかもしれない。
頬はこけ、目の下は黒い。
数週間で急激に老け込んでいた。
「ご飯食べてるの?」
母はまずそこを気にする。
小畑は曖昧に頷く。
居間に座る。
テレビは消えている。
ニュースを避けているのだと分かった。
母はお茶を出しながら言う。
「変な報道ばっかり……」
その声には苛立ちが混ざっていた。
「辰巳がそんなことするわけないじゃない」
小畑の動きが止まる。
母は続ける。
「小さい頃から優しかったのに」
昔話が始まる。
犬を拾った話。
いじめられていた同級生を庇った話。
熱を出した母の代わりに料理した話。
全部、本当にあった。
でも今の自分とは繋がらない。
母は強く言う。
「誰かが大げさに言ってるのよ」
小畑は静かに聞いている。
母はさらに続ける。
「飲み会なんて昔からあるじゃない」
その一言で、空気が変わる。
「ちょっと飲ませたくらいで……」
そこで止まる。
小畑が顔を上げたからだ。
母は息を飲む。
辰巳の目が、初めて真っ直ぐこちらを見ていた。
「……ちょっとじゃない」
母が黙る。
小畑は続ける。
「断ってたんだ」
喉が詰まる。
「何回も」
母の表情が揺れる。
それでも否定したい。
信じたくない。
「でも、みんなで飲んでたんでしょう?」
小畑は首を振る。
「違う」
声が低い。
「翔平は飲みたくなかった」
その名前を口にした瞬間、空気が重くなる。
母は初めて黙り込む。
今までは“ニュースの被害者”だった存在が、“翔平”という一人の人間になる。
小畑は視線を落とす。
「俺、笑ってた」
母が息を呑む。
「おかしいって思ってたのに」
言葉が止まらない。
「でも空気止めたくなくて」
母は小さく首を振る。
「辰巳……」
否定したい。
でも、もう息子自身が否定していない。
小畑は両手を見つめる。
「俺、自分がこんな人間だって知らなかった」
静かな声。
それが逆に痛い。
母は涙を浮かべる。
「そんなことない」
即座に返す。
親としての反射だった。
小畑はゆっくり首を振る。
「いや、そうなんだよ」
その一言で、母の表情が崩れる。
息子を守る言葉が見つからない。
テレビを消しても。
世間を責めても。
報道を否定しても。
本人が認め始めている。
母は震える声で言う。
「でも……死ぬなんて思わなかったんでしょう?」
小畑は答える。
「思わなかった」
間。
「でも、だから許されるわけじゃない」
沈黙。
時計の音だけが聞こえる。
母は涙を拭う。
小畑は初めて理解する。
これは自分だけの崩壊ではない。
家族の世界も壊している。
“優しい息子”だった記憶。
“まともな人間”だったイメージ。
全部が揺れている。
母は最後に小さく言う。
「……どうしたらいいの」
その問いに、小畑は答えられない。
償い方も。
戻り方も。
もう分からない。
ただ一つ分かるのは、
誰かを死なせた夜は、
自分の人生だけでは終わらなかったということだった。




