第6話 崩れ始める境界
田中平蔵は、コンビニの駐車場で缶コーヒーを握ったまま動けなくなっていた。
夜風が冷たい。
しかし頭の中は熱かった。
白石夏美の証言内容が共有されたのだ。
《途中から怖かった》
《助けてほしかったと思う》
その文章が、何度も頭に残る。
田中は舌打ちする。
「……なんだよそれ」
吐き捨てるように言ったが、自分に向けた声でもあった。
怖かった?
なら止めろよ。
そう思う。
でも、その言葉はそのまま自分にも返ってくる。
田中は缶コーヒーを飲む。
苦い。
スマホが鳴る。
市村敏弘。
「見ました?」
開口一番だった。
「ああ」
沈黙。
市村が続ける。
「完全に流れ変わりましたね」
その言葉は正しかった。
今までは“飲ませた側”の問題だった。
でも白石の証言で変わった。
“見ていた側”も含まれ始めた。
つまり、空間そのものが責任になる。
田中は苛立つ。
「でもよ、あいつも笑ってたじゃねえか」
市村は静かに返す。
「俺らもっす」
その瞬間、田中は何も言えなくなる。
笑っていた。
確かに。
全員。
田中は車にもたれかかる。
「……あれ、そんなヤバかったか?」
その問いは誰に向けたものでもない。
市村が少し黙ってから言う。
「今見ると、ヤバいっすね」
“今見ると”。
その言葉が重い。
当時は違った。
少なくとも、自分たちはそう思っていた。
飲み会とはこういうもの。
潰れるまで飲む。
飲ませる。
笑う。
翌日にはネタになる。
そういう世界だった。
田中は思い出す。
新人の頃、自分も潰された。
吐いた。
意識を失った。
でも翌日、皆笑っていた。
“歓迎された”と思った。
だから同じことをした。
間違っていると思わなかった。
いや、考えなかった。
市村がぽつりと言う。
「俺ら、自分らの飲み方が普通だと思ってたんすよね」
田中は答えない。
普通。
その言葉が崩れている。
今までは“ノリ”だったものが、“強要”に変わっていく。
その境界が壊れ始めている。
スマホがまた鳴る。
小畑辰巳。
田中は少し迷って出る。
「……はい」
小畑の声は疲れていた。
「白石の証言、見たか」
「見ました」
沈黙。
小畑が続ける。
「俺たち、認識がズレてたな」
田中は苦笑する。
「今さらっすか」
小畑は返さない。
その沈黙が重い。
「俺、ずっと“事故”だと思おうとしてた」
小畑の声は低い。
「でも、映像見るたびに違う気がしてくる」
田中は何も言えない。
事故。
その言葉を、自分も使っていた。
でも本当に事故なのか。
断っている相手に飲ませ続けた。
異常に気づいていた。
それでも止めなかった。
それを事故と言っていいのか。
市村が別の通話で割り込む。
「俺、最近夢見るんすよ」
田中が聞き返す。
「夢?」
「広岡が、ずっと笑ってる夢」
その言葉で空気が凍る。
市村は続ける。
「でも目だけ笑ってないんすよ」
沈黙。
誰も返せない。
小畑が小さく言う。
「……俺も見る」
その瞬間、三人の間に共有されるものが変わる。
仲間意識ではない。
罪の記憶だ。
田中は空を見上げる。
暗い。
昔なら、この時間は飲み屋にいた。
笑っていた。
騒いでいた。
それが普通だった。
でも今は違う。
境界が崩れている。
“楽しい飲み会”と呼んでいたものの中に、
誰かの恐怖が混ざっていたことを、
もう見ないふりできなくなっていた。




