第5話 沈黙の役割
白石夏美は、証言室に入る前から吐き気を感じていた。
廊下の白い壁。
硬い床。
閉まったドア。
その全部が、逃げ場をなくしていく。
担当者が静かに言う。
「無理そうなら途中で中断します」
白石は小さく首を振る。
「……大丈夫です」
大丈夫ではない。
でも、もう“無理です”では済まされない段階に来ていた。
部屋に入る。
机。
録音機器。
資料。
そして向かい側に座る調査官。
その横には、遺族側代理人。
広岡直美もいた。
白石は視線を合わせられない。
調査官が録音開始を告げる。
「では、当日の状況について確認します」
白石は深く息を吸う。
喉が乾いている。
「あなたは、広岡さんがお酒に弱いことを知っていましたか」
「……知っていました」
「どの程度?」
「かなり弱いと……」
「なぜそう思いましたか」
白石は記憶を辿る。
広岡が以前、小さく話していた。
“体質的に無理なんです”
その声。
あの遠慮がちな笑い。
「本人から聞いていました」
調査官は頷く。
「では、なぜ止めなかった?」
その質問で、白石の呼吸が止まる。
止めなかった。
その言葉は、小畑たちだけに向けられていると思っていた。
でも違う。
自分にも来る。
白石は震える声で言う。
「……誰かが止めると思っていました」
調査官が聞き返す。
「誰かとは?」
沈黙。
小畑。
田中。
市村。
誰でもよかった。
自分以外なら。
「……先輩たちです」
その言葉を口にした瞬間、自分の弱さが形になる。
調査官は静かに続ける。
「あなた自身は?」
白石は俯く。
「怖かったです」
「何が?」
「空気を壊すのが……」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
直美が初めて白石を見る。
白石は続ける。
「止めたら、自分が悪者になる気がして……」
声が震える。
「だから、笑っていました」
その瞬間、涙が落ちる。
止められない。
「本当は、途中から怖かったんです」
白石は顔を覆う。
「あれ、おかしいって思ってたんです」
調査官は静かに聞く。
責める声ではない。
だからこそ苦しい。
「でも、誰も止めなかったから……」
白石はそこで止まる。
違う。
“誰も止めなかった”ではない。
自分も止めなかった。
直美が静かに口を開く。
「翔平は、その時どんな顔をしていましたか」
白石は涙を拭いながら答える。
「……笑ってました」
間。
「でも、無理してる笑いでした」
その瞬間、直美の表情がわずかに揺れる。
白石は続ける。
「助けてほしかったんだと思います」
言ってしまった瞬間、部屋の空気が重く沈む。
助けてほしかった。
そのサインを、自分たちは見ていた。
でも流した。
笑いに変えた。
沈黙に埋めた。
調査官が最後の確認をする。
「あなたは、自分に責任があると思いますか」
白石はゆっくり顔を上げる。
涙で視界が滲む。
「……あります」
小さな声。
でも逃げていない。
「飲ませてはいません」
そこで止まる。
「でも、止めませんでした」
その言葉が録音される。
静かに。
確実に。
調査官が録音を止める。
部屋に沈黙が落ちる。
直美はしばらく白石を見ていた。
怒りではない。
悲しみとも少し違う。
“理解してしまった苦しさ”に近い表情だった。
白石は椅子から立ち上がる。
足が震える。
出口へ向かう途中、直美が小さく言う。
「……あなただけじゃないです」
白石は振り返る。
直美は続ける。
「でも、“あなたもいた”んです」
その言葉で、白石の足が止まる。
沈黙にも役割がある。
見ていただけでも、そこに加わっている。
その現実だけが、
静かに胸の奥へ沈んでいった。




