第3話 “普通”の崩壊
「……でさ、その客が急に仕様変えるとか言い出して」
田中平蔵の声がテーブルに響く。
笑いが起きる。
誰かが「最悪っすね」と返す。
そのやり取りは、どこの会社にもある普通の飲み会そのものだった。
だが、その“普通”が少しずつ壊れ始めていることに、まだ誰も気づいていない。
時計は午後八時を回っていた。
空いた缶ビールがテーブルの端に積み重なり、油の浮いた皿が放置され、アルコールと体温と料理の臭いが混ざり合っている。
室内は暑い。
しかし広岡翔平の指先は冷えていた。
彼はそれを悟られないように、膝の上で両手を握っていた。
頭が重い。
耳鳴りがする。
周囲の笑い声が、少し遠く聞こえる。
(まずいな……)
その感覚はあった。
しかし広岡には「帰ります」と言える空気が見つけられなかった。
まだ始まって一時間少し。
周囲は全員飲んでいる。
ここで抜ければ、“ノリが悪い後輩”になる。
しかも今日は歓迎会も兼ねていた。
「大丈夫か?」
突然、小畑辰巳が声をかける。
広岡は反射的に顔を上げた。
小畑の目は、酔っている人間の目ではなかった。
むしろ異様に冷静だった。
何杯飲んでも変わらない男。
その事実が、社内で小畑を特別な存在にしていた。
「……はい、大丈夫です」
広岡は笑おうとした。
しかし笑顔が少し遅れる。
その遅れを、小畑は見逃さなかった。
(かなり弱いな)
そう思う。
だが同時に、別の感覚も浮かぶ。
(でも、意識はある)
それが危険だった。
小畑の中には、“本当に危ない状態”の基準が存在していた。
吐く。
立てない。
完全に意識を失う。
そういう状態にならなければ「まだ大丈夫」と判断してしまう。
そしてその基準は、自分の体質を基準にして作られていた。
だからズレている。
致命的に。
「広岡くんさぁ」
市村敏弘が身体を乗り出す。
顔は赤い。
だが目だけは妙に冴えていた。
彼は酒が好きだった。
飲むことも好き。
そして“潰す空気”も好きだった。
自分より弱い相手が崩れていく様子を見ると、妙な高揚感を覚える。
それを本人は競争心だと思っている。
「人生で二回目の酒ってマジ?」
「……はい」
「逆にすげぇな」
笑いが起きる。
だがその笑いには、少しずつ“珍しいものを見る視線”が混ざり始めていた。
飲めない人間は、この場では異物になる。
異物は、いじられる。
そして“いじり”は、徐々に強制へ変わる。
「一回くらい潰れた方がいいって」
田中が言う。
「経験になるし」
その言葉に数人が頷く。
誰も悪意の顔をしていない。
だからこそ怖かった。
悪意ではなく、“正しいこと”として話している。
広岡は曖昧に笑うしかなかった。
断り続けることは、この場では空気を悪くする行為になる。
そして人は、空気を壊すことに強い恐怖を感じる。
特に職場では。
小畑は黙って酒を飲みながら、その様子を見ていた。
彼の中にも、違和感はある。
だが同時に、“昔はもっと酷かった”という感覚もある。
新人時代、自分も飲まされた。
吐くまで飲んだ。
潰れた。
朝まで路上に転がったこともある。
だから、これくらいは普通だと思っている。
普通。
その言葉が、この空間を支配していた。
そのときだった。
「……あ、やば」
誰かが笑う。
視線が集まる。
中川原利蔵だった。
完全に寝ていた。
机に突っ伏したまま、小さないびきをかいている。
「中川原さん、早すぎでしょ!」
「まだ二時間経ってないっすよ!」
爆笑が起きる。
誰かが肩を揺する。
だが中川原は起きない。
「いつも通りだな」
小畑が苦笑する。
その空気で、場がさらに緩む。
“もうまともに進行する飲み会ではない”という空気が出来上がる。
ここから先は、制御が消える。
誰かが止める飲み会ではなくなる。
そしてその変化を、一番喜んでいたのは市村だった。
「よし、じゃあ次いこうぜ!」
彼は立ち上がり、追加の酒を開け始める。
缶チューハイ。
ハイボール。
日本酒。
テーブルの上にアルコールが増殖していく。
広岡はその光景を見ながら、胃の奥が冷える感覚を覚えていた。
もう飲みたくない。
身体が拒否している。
だが、ここで断ればどうなる。
「え、広岡もう無理?」
「まだ全然じゃん」
そう言われる未来が簡単に想像できた。
その想像が、人間を黙らせる。
田中が広岡の肩を叩く。
「お前、顔赤くなんの早いなぁ!」
「……すみません」
「謝んなって!」
また笑いが起きる。
しかし広岡は、なぜか謝ってしまった自分に気づく。
飲めないことが、申し訳ないことのように感じ始めていた。
その変化は危険だった。
“自分が悪い”と思い始めた瞬間、人は無理を止められなくなる。
小畑は広岡のグラスを見る。
減っていない。
それに気づいた瞬間、無意識に口が動いた。
「広岡くん、止まってるぞ」
軽い口調。
いつもの冗談。
しかしその一言で、周囲の視線が集まる。
広岡の喉が詰まる。
逃げ場がなくなる。
「……飲みます」
その返事を聞いた瞬間、小畑はなぜか少し安心した。
従った。
空気が維持された。
場が壊れなかった。
その安心感。
それこそが、加害の始まりだった。
広岡はグラスを持つ。
指先が震えている。
だが誰も深刻には受け取らない。
酔ってるだけ。
そう処理される。
広岡は一口飲む。
喉が焼ける。
胃が痙攣する。
呼吸が浅くなる。
それでも周囲は拍手する。
「おー!」
「いけるじゃん!」
その歓声の中で、広岡だけが静かに壊れ始めていた。
そして、その異変に最も近い位置にいる小畑だけが、まだそれを“深刻ではない”と思っていた。
飲み会は、もう普通ではなかった。
だが誰も、その普通の崩壊を言葉にできなかった。




