第2話 飲めない人間の孤立
飲み会の空気は、開始から一時間も経たないうちに“温度”を変えていた。
最初の乾杯の緊張は消え、笑い声と食器の音が混ざり合い、誰が何を話しているのか分からない雑多な空間になっている。アルコールは人の距離を近づけると言われるが、この場では逆だった。距離は縮まるのではなく、「役割」に分解されていく。
飲める人間。飲めない人間。盛り上げる人間。沈む人間。
その分類が、無意識のうちに固定されていた。
広岡翔平は、テーブルの端に座っていた。
最初の一口を飲んでから、すでに表情が固い。体調の変化を隠そうとしているが、隠しきれていない。指先がわずかに冷えているのか、グラスを持つ手が一定のリズムで小さく揺れていた。
それを見ていた田中平蔵が、笑いながら声を上げる。
「広岡さ、意外といけるんじゃね?」
悪意はない声だった。
むしろ“場を盛り上げるための当然の一言”だった。
しかし、その一言が広岡の逃げ道を一つ消す。
「いや、本当に弱いんで……」
広岡は同じ言葉を繰り返した。
だがその言葉は、もう機能していなかった。
なぜなら一度でも飲んでしまった時点で、「飲めない人間」という定義は一段階ずらされるからだ。
“飲めない”ではなく、“まだいけるかもしれない人間”。
その曖昧な領域に置かれる。
小畑辰巳はその変化を見ていた。
見ていながら、特に止める理由を探していない自分にも気づいていた。
(まぁ、一口はいけたしな)
その判断は、合理的にも見えた。
しかし合理性は、この場では危険な方向に働く。
田中がグラスを持ち上げる。
「じゃあさ、次は軽くいこうよ。水っぽいやつ」
「いや、本当に……」
広岡が言い終える前に、別の声が割り込む。
市村敏弘だった。
「広岡くんさ、結婚したんだろ?祝いだよ祝い」
その言葉で、場の空気が一段軽くなる。
“祝い”という言葉は、断る理由を奪う便利な装置だ。
祝われる側が拒否することは、空気を壊す行為になる。
広岡は一瞬だけ視線を落とした。
その視線の先には、スマートフォンがある。
画面は暗いままだったが、そこに妻・直美の存在があることは、誰にも見えない形で確かにあった。
「……少しだけなら」
その言葉が出た瞬間、小畑はわずかに違和感を覚えた。
(また飲むのか)
しかし、その違和感はすぐに流される。
周囲の「いいね!」という空気に押されて。
グラスが再び満たされる。
その動きは流れるようで、止まらない。
田中が笑う。
市村が煽る。
誰かが動画を撮る。
「あとで見返そうぜ」と冗談を言う。
その全てが、飲ませる方向に作用しているのに、誰もそれを“強制”とは認識していない。
強制ではなく“同意のあるノリ”として処理されている。
その認識のズレが、この場の最大の問題だった。
広岡は二杯目を口にした。
飲み方が先ほどより遅い。
喉の動きがわずかに不自然になる。
小畑はそれを見て、初めて「少し弱すぎるのではないか」という考えに触れる。
だがその考えは、深くならない。
なぜなら、周囲が笑っているからだ。
笑いは判断を上書きする。
中川原利蔵はすでに半分眠っていた。
机に頭を預けながら、時折「いいねぇ……若いのは……」と呟く。
その姿は、場の“ブレーキ役”になるはずだったが、すでに機能していない。
ブレーキがない空間では、加速が常態になる。
「小畑さん、今日は余裕っすね」
田中が話を振る。
小畑は軽く笑って返す。
「まぁ、まだ序盤だろ」
その一言が、場の速度をさらに上げる。
“まだ序盤”という言葉は、まだ飲めるという意味に変換される。
広岡はその間にも、少しずつ顔色を失っていく。
ただ、それは劇的な崩れ方ではない。
ゆっくりとした侵食だった。
だからこそ誰も止めない。
壊れていることに気づくには、時間差がある。
市村が立ち上がる。
「じゃあさ、次いこう次。テンポ上げよう」
料理が追加される。
新しい酒が開けられる。
空気は休憩を知らないまま進行する。
そのとき、広岡が再び立ち上がった。
「ちょっと……トイレ……」
声は小さい。
田中が笑う。
「おう、行ってこい行ってこい」
軽い返事。
しかしその瞬間、小畑はわずかに目線を追う。
広岡の歩き方が、さっきより不安定になっている。
だが、それでも“歩けている”という事実が判断を鈍らせる。
(大丈夫か?)
その疑問は一瞬浮かぶ。
しかし次の瞬間には消える。
なぜなら、周囲が普通に笑っているからだ。
“普通に見える空間”は、人の危険察知能力を麻痺させる。
広岡が戻ってくるまでの数分間、会話は別の話題に流れていく。
仕事の愚痴。
新しい案件。
誰かのミス。
そして笑い。
その間、誰も「戻ってこない可能性」を考えない。
やがて広岡は戻ってきた。
だが、戻ってきた“形”が少し違っていた。
表情が硬い。
呼吸が浅い。
椅子に座る動作が、わずかに遅い。
それでも本人は何も言わない。
言えない。
ここで言えば、空気を壊すことになるからだ。
その沈黙を見て、小畑はようやく小さな違和感を具体化する。
(……ちょっと、遅いか)
だがそれでも、まだ“止める段階”ではないと判断してしまう。
この判断が、この場の全員に共有されていく。
止めない理由はない。
ただ、止める理由もない。
その中間領域に、広岡だけが置かれている。
そしてその状態は、誰にも修正されないまま進んでいく。
飲み会は、まだ序盤を名乗っていた。
しかし実際には、すでに戻れない段階へ入り始めていた。




