第7話 残された記録
広岡直美の部屋には、夜の気配が抜けていなかった。
カーテンは開いているのに、光が入ってこないような感覚がある。
机の上には、警察からの簡易資料のコピー。
会社からの謝罪文。
そして、弁護士から届いた封筒。
すべて“誰かがまとめた現実”だった。
だが、直美の中の現実とは一致しない。
そこに「翔平」がいない。
ただの記号と文章になっている。
直美は椅子に座り、ゆっくり資料を開く。
最初に目に入るのは時系列。
・飲酒開始
・複数回の乾杯
・体調変化の兆候
・救急要請
その中に一行だけ異質なものがある。
“促進発言(小畑辰巳)”
直美の手が止まる。
名前。
そこに具体性が宿る瞬間だった。
今まで「会社」「飲み会」「関係者」だったものが、初めて“個人”になる。
直美はその名前を声に出さない。
ただ、何度も目でなぞる。
小畑辰巳。
紙の上の文字なのに、重い。
そのとき、スマホが鳴る。
弁護士からの連絡。
《加害側の主張整理が進んでいます》
直美は短く返信する。
《事実だけ教えてください》
すぐに返答が来る。
《現時点では、飲酒促進行為の中心人物として特定されつつあります》
中心。
その言葉で、直美の呼吸が止まる。
中心。
つまり、そこから始まったということ。
直美は目を閉じる。
翔平の顔が浮かぶ。
「今日は飲まない」
そう言っていた声。
何度も断っていた姿。
それでも、最後は飲まされた。
直美は静かに立ち上がる。
キッチンへ行く。
コップを手に取る。
水を入れる。
飲めない。
喉が拒否する。
そのとき、玄関のチャイムが鳴る。
一瞬で身体が固まる。
また来た。
警察か。
会社か。
違った。
郵便受けに入っていた封筒を、さらに別の弁護士が届けに来たものだった。
直美はドアを開けない。
インターホン越しに声だけが聞こえる。
「損害賠償請求の進捗報告になります」
直美は短く言う。
「中身だけください」
封筒が置かれる音。
足音が遠ざかる。
静寂。
直美は封筒を開ける。
中には、新しい整理資料。
そこには“役割分担図”があった。
中心に小さな円。
その周囲に複数の名前。
小畑辰巳
田中平蔵
市村敏弘
佐伯光
矢印が引かれている。
飲酒の流れ。
促進。
同調。
放置。
その図を見た瞬間、直美は初めて理解する。
これは“事故”ではなく、“構造”だ。
誰か一人が狂ったのではない。
全員で形作ったもの。
直美は椅子に座り直す。
手が震える。
怒りなのか悲しみなのか分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
戻らない。
翔平はもう戻らない。
その現実だけが、静かに部屋を満たしていく。
直美はスマホを握る。
そして一通だけメッセージを打つ。
《会って話します》
送信。
すぐに既読はつかない。
それでも直美は思う。
これは終わりではない。
むしろ、始めるための一歩だ。




