第3話 線を越える前夜
小畑辰巳は、部屋の電気をつけたまま眠れずにいた。
時計は深夜2時を過ぎている。
天井の白さが、目に刺さる。
スマホは机の上で何度も震えていたが、もう確認していない。
見るのが怖い。
見ても変わらない。
そう分かっているのに、指が動かない。
玄関の方で物音がした気がした。
錯覚かもしれない。
それでも心臓が跳ねる。
小畑はゆっくり起き上がる。
水を飲もうとして、コップを落としそうになる。
手が震えている。
そのとき、スマホが鳴る。
非通知。
一瞬で身体が固まる。
出るべきではない。
分かっている。
でも、鳴り続ける。
三回目で通話ボタンを押してしまう。
「……もしもし」
静かな呼吸音。
そして声。
低い女の声。
「小畑辰巳さんですね」
一瞬で、広岡直美だと分かる。
小畑の喉が詰まる。
「……はい」
直美は感情を抑えたまま言う。
「あなたが、あの場で一番最初に飲ませた人ですか」
直球だった。
逃げ道がない。
小畑は答えられない。
“最初”という言葉。
それが重い。
田中もいた。
市村もいた。
でも記録では、自分の発言が先に残っている。
「……完全には」
言いかけて止まる。
直美は遮る。
「曖昧な話はいりません」
沈黙。
小畑は息を吐く。
「……はい」
その一言で空気が変わる。
電話の向こうで、直美の呼吸が一瞬止まる。
「そうですか」
感情が薄い。
薄いのに、刺さる。
直美は続ける。
「夫は、何回断りましたか」
小畑は記憶を探す。
何回。
何度も。
「……複数回です」
「それでも続けたんですね」
小畑は答えられない。
沈黙が続く。
直美は静かに言う。
「あなたたちは、止められたのに止めなかったんですよね」
その言葉で胸が詰まる。
“止められた”。
その表現は正しかった。
可能性はあった。
でもその場では、それが見えなかった。
いや、見ようとしなかった。
小畑はようやく言う。
「……止めるべきでした」
直美は一拍置く。
「“べき”じゃなくて」
間。
「やったか、やらなかったかです」
その一言が鋭い。
小畑は言葉を失う。
直美は続ける。
「名前を教えてください」
小畑は反射的に聞き返す。
「え……」
「その場にいた人全員です」
小畑は息を吸う。
喉が乾いている。
でも答えるしかない。
「田中平蔵」
「市村敏弘」
「佐伯光」
言うたびに、自分の罪が形になる気がする。
最後に自分の名前。
それを言う前に、直美が言う。
「あなたの名前はもう知っています」
沈黙。
小畑の背中に冷たい汗が流れる。
直美は静かに続ける。
「確認したかっただけです」
小畑は何も言えない。
直美の声はさらに低くなる。
「これから、弁護士を通します」
その言葉で意味が変わる。
個人の会話ではなくなる。
線が引かれる。
「あなたたち全員に、順番に責任を問います」
順番。
またその言葉。
電話の向こうで、直美の声が少しだけ揺れる。
怒りではない。
崩れないようにしている声。
「私は、夫がどうして死んだのか知りたいだけです」
小畑は何も言えない。
直美は最後に言う。
「逃げないでください」
そして通話は切れた。
静寂。
小畑はスマホを見つめる。
手が震えている。
逃げないでください。
その言葉だけが残る。
部屋の中は静かだ。
でも、その静けさはもう以前のものではない。
誰かの言葉が、現実に触れ始めた音がしていた。




