第2話 名前を探す夜
白石夏美は、帰りの電車の中でずっと手を握りしめていた。
爪が手のひらに食い込む。
痛みでしか、現実を保てない。
スマホの画面には、さっきの言葉が残っている。
「小畑辰巳さんです」
その名前を言った瞬間、広岡直美の顔が変わった。
怒りとも悲しみとも違う。
何かを確定させた顔だった。
白石はその表情が忘れられない。
電車が揺れるたびに、思考も揺れる。
あれでよかったのか。
言わなければよかったのか。
でも言わなければ、終わらない。
終わらないのは怖い。
駅に着く。
人が流れる。
誰も何も知らない顔をしている。
その普通さが、逆に苦しい。
白石は改札を抜け、歩きながらスマホを開く。
検索欄。
「広岡翔平」
名前を打つ。
記事が出る。
《会社飲み会後に男性死亡》
顔写真はない。
ただ、年齢と「26歳」の文字だけがある。
その数字がやけに重い。
白石はスクロールする。
関連記事。
コメント欄。
「また飲み会か」
「自業自得では?」
その文字を見た瞬間、手が止まる。
自業自得。
違う。
違うと言いたいのに、言葉が出ない。
実際、その場にいたのは自分だ。
止めなかった。
笑っていた。
沈黙していた。
白石はスマホを閉じる。
でも頭の中に残る。
“止めなかった人間”としての自分。
マンションに着く。
鍵を開ける。
部屋は静かだ。
電気をつける。
明るい。
でも安心できない。
白石はソファに座り、深く息を吐く。
そのとき、通知が鳴る。
会社のグループチャット。
まだ残っている。
ただし、ほとんどの人が発言していない。
その中で一つだけ新しい投稿。
《遺族側から弁護士が動き始めたらしい》
別の社員の書き込み。
《個人名出る可能性あるって》
白石の手が止まる。
個人名。
もう出ている。
でも、これからもっと広がる。
白石は思う。
小畑辰巳。
田中平蔵。
市村敏弘。
佐伯光。
そして自分。
全員が、名前として残る。
“関係者”という曖昧な言葉ではなくなる。
白石は立ち上がり、水を飲もうとする。
コップを持つ手が震える。
飲めない。
喉が詰まる。
そのとき、スマホが再び鳴る。
非通知。
白石は一瞬止まる。
出ない。
でもまた鳴る。
三回目で、出てしまう。
「……はい」
沈黙。
向こうから声。
低い、女の声。
「広岡直美です」
白石の呼吸が止まる。
言葉が出ない。
直美は続ける。
「あなた、現場にいた人ですよね」
白石は小さく答える。
「……はい」
直美の声は静かだ。
怒鳴り声ではない。
その静けさの方が怖い。
「名前、全部教えてください」
白石は震える。
「それは……」
「全部です」
短い。
逃げ道がない。
白石は息を吸う。
そして言う。
「……会社の人事から正式に」
直美は遮る。
「会社じゃなくて」
間。
「“誰がそこにいたか”です」
白石は目を閉じる。
頭の中に名前が浮かぶ。
でも、それを口にすることの重さが分かる。
それでも言うしかない。
「小畑辰巳さん」
沈黙。
「田中平蔵さん」
「市村敏弘さん」
「佐伯光さん」
言うたびに、喉が削れるように痛い。
最後に、自分の名前が残る。
でもそれは言わない。
言えない。
直美は静かに聞いている。
「その人たちは、止めましたか?」
白石は答えられない。
直美は続ける。
「一人でも」
白石は小さく言う。
「……誰も、明確には」
その瞬間、電話の向こうの空気が変わる。
静かな怒り。
「そうですか」
それだけ。
電話は切れない。
切られない。
でも終わっている。
白石はスマホを握りしめたまま立ち尽くす。
部屋の中は静かだ。
しかしその静けさの中で、何かが一人ずつ名前を持ち始めていた。
それはもう、“事件”ではない。
人の顔と名前を持った現実だった。




