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『酔いの連鎖』  作者: こうた
第3章 遺族の思い

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第1話 届かない朝

広岡直美は、朝になっても同じ場所に座っていた。


リビングの椅子。


テーブルの上には、昨夜のままのコップがある。


夫が使っていたもの。


洗えない。


触れない。


時間だけが勝手に進んでいるのに、自分だけが取り残されている。


スマホが震える。


親族からのメッセージ。


《本当に事故なの?》


その一文が刺さる。


事故。


誰かがそう呼んでいる。


でも直美には、それが“事故”だとは思えなかった。


夜の病院で聞いた言葉が蘇る。


「飲み会で」


「止められなかった」


「空気」


どれも曖昧だった。


曖昧なのに、人は死んでいた。


直美はゆっくり立ち上がる。


冷蔵庫を開ける。


昨日まで普通にあった食材。


二人分の生活。


それが一人分になることを、誰も教えてくれない。


ただ、減っていくだけ。


突然、インターホンが鳴る。


直美の身体が一瞬固まる。


もう一度。


ピンポーン。


息を止める。


モニターを見る。


警察ではない。


会社の人間でもない。


若い女性が一人。


白石夏美だった。


直美は少し迷ってからドアを開ける。


白石は深く頭を下げる。


「……お忙しいところ、すみません」


直美は何も言わない。


白石は手に小さな封筒を持っている。


「これ……会社としての説明書類です」


直美は受け取らない。


「説明?」


声が低い。


白石は一瞬黙る。


「正式な報告書と、謝罪文になります」


直美は笑わない。


「謝罪文で、人は戻るんですか?」


白石の顔が強張る。


答えられない。


直美はゆっくり言う。


「昨日まで普通に生きてたんですよ」


声が震えている。


「それを、戻せるんですか?」


白石は頭を下げる。


「……申し訳ありません」


その言葉はもう、何度も聞いた。


意味を持たない音に近い。


直美は一歩近づく。


「誰がやったんですか」


白石は言葉を探す。


「当日の参加者全員が……」


直美は首を振る。


「それ、聞きたくないです」


声が鋭くなる。


「誰が“最初に止めなかった”んですか」


白石は黙る。


その沈黙が答えに近い。


直美はさらに続ける。


「夫は、何回断ったんですか」


白石は震えながら言う。


「複数回……です」


直美の目がわずかに揺れる。


「それでも飲ませたんですね」


白石は頷く。


直美は一瞬目を閉じる。


呼吸が乱れる。


でも涙は出ない。


もう枯れている。


「じゃあそれは、事故じゃないですよね」


白石は答えられない。


直美は低く言う。


「名前、教えてください」


白石は戸惑う。


「え?」


「誰が、最初に飲ませたんですか」


白石は唇を噛む。


沈黙が長い。


そして小さく言う。


「小畑……辰巳さんです」


その名前が出た瞬間、空気が変わる。


直美はその名前を繰り返さない。


ただ、心の中で一度だけ刻む。


小畑辰巳。


白石は続ける。


「でも……全員が……」


直美は遮る。


「もういいです」


その一言で会話が止まる。


直美は封筒を見下ろす。


そして受け取る。


ゆっくりと。


「これ、読むと思いますか?」


白石は答えられない。


直美は静かに言う。


「私は、夫が死んだ理由を知りたいだけです」


白石は何も言えない。


直美はドアを閉める。


音は静かだった。


しかし、その静けさの中で何かが確実に動き始めていた。


部屋に戻ると、テーブルの上のコップが見える。


直美はそれを見つめる。


そして初めて思う。


これは“終わった出来事”ではない。


まだ、始まったばかりだ。

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