第9話 名前の重さ
処分通知は、想像よりも早く届いた。
封筒は淡白で、何の感情もなかった。
小畑辰巳は自宅の机の前で、しばらくそれを開けられずにいた。
紙一枚で人生が決まる気がした。
呼吸が浅い。
ようやく封を切る。
そこに書かれていたのは、短い文章だった。
――懲戒処分(出勤停止および調査継続)
それだけ。
だが、その一行は重かった。
小畑は椅子に座り直す。
頭がぼんやりする。
「出勤停止」
その言葉が現実として理解できない。
会社に行かない。
机に座らない。
メールを開かない。
それだけで、自分が社会から切り離される。
スマホが鳴る。
田中平蔵。
出る。
「見ました?」
声が乾いている。
「……ああ」
沈黙。
田中が続ける。
「俺も出ました」
短い言葉。
その中に焦りがある。
市村からもすぐに連絡が来る。
「同じっす」
白石からは来ていない。
佐伯も来ていない。
切り離され方が違う。
小畑は気づく。
順番が始まっている。
会社の対応は均一ではない。
役割と関与の濃さで、明確に分けられている。
田中が言う。
「俺、マジで軽い方っすよね」
自嘲。
「でもこれでも終わりっすかね」
小畑は答えられない。
終わり。
それが何を指すのか分からない。
市村が別の電話で割り込む。
「俺、呼び出し来ました。追加聴取っす」
その声は震えている。
“次の段階”に入っている。
小畑は窓の外を見る。
日常の風景。
人が歩いている。
誰も知らない。
この一件が、まだ外では完全には“終わっていない”ことを。
テレビはまた同じニュースを流している。
《飲み会後の死亡事案 会社側の責任は》
その見出しが、他人事のように見えて怖い。
そのとき、玄関のチャイムが鳴る。
小畑は固まる。
もう一度。
ピンポーン。
静かに、しかし確実に。
ドアスコープを覗く。
今度は警察ではない。
スーツの男が一人。
会社の法務部だった。
ドアを開ける。
男は淡々と頭を下げる。
「今後の対応について、確認に来ました」
その声は事務的だ。
しかし、その事務性が逆に重い。
「被害者遺族からの正式な申し入れがありまして」
その一言で空気が変わる。
遺族。
広岡直美。
名前が出るだけで、胸が痛む。
法務部の男は続ける。
「損害賠償請求の可能性が検討されています」
小畑の喉が詰まる。
「……個人にですか?」
男は一瞬黙る。
「会社および個人双方です」
その言葉で、現実が分かれる。
会社だけの問題ではない。
自分個人にも来る。
法的な責任。
金銭。
社会的評価。
全部が重なっていく。
男は淡々と続ける。
「また、刑事責任の進行状況次第では」
そこまで言って止める。
言わなくても分かる。
小畑は息を吐く。
法務部の男は書類を差し出す。
「今後の窓口はすべてこちらになります」
形式的な説明。
しかしその中に、“隔離”の意味がある。
小畑は書類を受け取る。
紙がやけに軽い。
なのに、手が重い。
男は去る前に一言だけ言う。
「個人としての発言には十分注意してください」
ドアが閉まる。
音がやけに大きい。
小畑はその場に立ち尽くす。
田中から電話。
「遺族って……あの奥さんですよね」
その声が震えている。
市村も別の電話で同じことを聞いている。
全員が同じ方向を見始める。
白石からようやくメッセージが来る。
《私、もう無理かもしれません》
その一文だけ。
小畑はスマホを握る。
何も返せない。
無理。
その言葉が一番正しいのかもしれない。
部屋の中は静かだ。
でも頭の中だけがうるさい。
名前。
広岡翔平。
その名前が、重くなっていく。
ただの後輩ではない。
ただの事故でもない。
一人の人生の終わりの中心に、自分がいる。
小畑は机に手をつく。
力が入らない。
気づく。
これはもう「事件の外側」に立てない。
全員が、内側にいる。
そしてその中心には、戻れない重さだけが残っていた。




