第6話 切り離された日常
外に出ると、空は思ったより青かった。
警察署の前だけが、別の世界のように重い。
小畑辰巳は数秒、その場に立ち尽くした。
呼吸を整えるという感覚が、うまく思い出せない。
隣で田中平蔵が深く息を吐く。
「……これ、いつ終わるんすかね」
誰に向けた言葉でもない。
市村敏弘は空を見上げる。
「終わるっていうか……終わらせられるんすかね」
その言葉は冗談ではなかった。
白石夏美は何も言わず、スマホを見ている。
画面には、ニュースサイトの見出しが並んでいる。
《飲み会後に男性死亡 アルコール強要疑い》
《会社ぐるみの飲酒慣行か》
見出しだけで胸が重くなる。
佐伯光は少し離れて立ち、何度も同じ動作を繰り返していた。
画面を開く。
閉じる。
また開く。
意味のない確認。
小畑はゆっくり歩き出す。
どこに向かうのか分からないまま。
田中が後ろから言う。
「会社、どうなるんすかね」
その言葉で、小畑の足が止まる。
会社。
そこに戻る現実がある。
昨日までの日常。
デスク。
メール。
会議。
その全部が、まだ続いているはずなのに、急に遠い。
「懲戒とか……あるんすかね」
市村が言う。
その声は乾いている。
誰も答えない。
答えられない。
白石が小さく言う。
「もう……普通には戻れないですよね」
その言葉だけが、現実に近かった。
小畑は振り返らないまま言う。
「戻るとかじゃなくて……」
そこで止まる。
言葉が見つからない。
“戻る前提”自体が崩れている。
田中が苦笑する。
「クビとか、普通にあるやつですよねこれ」
その軽さは、もはや防御だった。
現実を軽く言わないと、耐えられない。
市村が言う。
「でもクビで済む話じゃない気もするっすけどね」
その一言で、空気がまた重くなる。
佐伯がようやく口を開く。
「会社の名前、出てますよね」
小畑は頷く。
もう隠れられない段階に来ている。
会社。
組織。
管理責任。
そこまで話が広がっている。
自分たちだけの問題ではない。
それが逆に怖い。
個人の問題なら、まだ逃げ場があった。
でも今は、構造の問題になっている。
歩きながら、小畑は思い出す。
広岡の顔。
断っていた声。
「今日はちょっと……」
その一言を、何度も聞いていた。
それでも進めた。
“空気”を理由に。
いや、理由ではない。
言い訳だ。
会社の前に着く。
いつも通りのビル。
出勤する人たち。
コーヒーを持って歩く社員。
その普通さが逆に怖い。
田中が小さく呟く。
「昨日までここ来てたのに……」
その一言で、小畑の胸が締まる。
たった一晩で、世界が変わった。
変わっていないのは外側だけ。
ビルの入口で、警備員がこちらを見る。
一瞬、空気が止まる。
知られている。
そう感じるだけで身体が重くなる。
白石が小さく言う。
「入れるんですかね……」
その問いに誰も答えない。
入れるかどうかではない。
入るしかない。
小畑はゆっくり歩き出す。
ドアが開く。
自動ドアの音が、やけに大きい。
中に入ると、空気が変わる。
日常の匂い。
コピー機。
キーボード。
電話の音。
そのすべてが、昨日までと同じなのに、別物に感じる。
数人の社員がこちらを見る。
視線。
止まる。
すぐ逸らす。
その繰り返し。
誰も近づかない。
誰も話しかけない。
田中が小さく言う。
「もう……別枠っすね」
その言葉が一番現実的だった。
小畑は自席に向かう。
椅子に座る。
机の上は昨日のまま。
資料。
ペン。
コーヒーのカップ。
そこに何も変化はない。
でも自分だけが変わっている。
メールを開く。
未読が大量にある。
その中に一通。
【人事部より】
件名だけで心臓が跳ねる。
小畑はしばらく開けなかった。
ただ画面を見つめる。
その間にも、会社は普通に動いている。
電話が鳴る。
誰かが笑う。
キーボードが鳴る。
その中で、自分だけが止まっている。
やがて、小畑はゆっくりクリックする。
画面が開く。
そこには短い文章があった。
“事情聴取中のため、業務から一時的に離れていただきます”
たったそれだけ。
それなのに、全てを切り離す言葉だった。
小畑は椅子に深く座り直す。
もう戻れない場所が、静かに確定していく音がした。




