第5話 崩れた言い訳
取調室を出たあと、廊下の空気は妙に薄かった。
蛍光灯の白さが、肌に直接触れてくるように感じる。
小畑辰巳は壁に手をつきながら歩いた。
足が重い。
頭の中はさっきの言葉で埋まっている。
「認識しながら、対応を取らなかった」
その一文だけが、何度も再生される。
廊下のベンチに田中平蔵が座っていた。
背中を丸めて、スマホを見ているふりをしている。
だが画面は動いていない。
市村敏弘は少し離れた場所で、落ち着きなく足を動かしていた。
白石夏美は俯いたまま、何も言わない。
佐伯光だけが、壁に貼られたポスターをぼんやり見ている。
「飲酒運転は犯罪です」
その文字がやけに皮肉だった。
田中が小さく言う。
「これ、どうなんすかね」
誰に向けた言葉でもない。
でも全員が聞いている。
市村が笑いかけて、やめる。
「いや……冗談じゃ済まないっすよね」
その声には、いつもの軽さがない。
沈黙。
小畑は壁にもたれたまま、動けなかった。
頭の中に別の場面が浮かぶ。
広岡が断っていた顔。
「いえ、ちょっと……」
何度もあった。
そのたびに笑いで流した。
「いいからいいから」
「一杯だけ」
その“少しだけ”が積み重なっていた。
今になって、それが全部重くなる。
白石が突然、声を出す。
「私、止めようとしました」
誰もすぐ反応しない。
白石は続ける。
「でも……空気が」
そこで言葉が止まる。
空気。
またその言葉。
田中が小さく笑う。
「空気ってなんすかね」
自嘲のような声。
市村が言う。
「結局、誰も止めてないってことっすよね」
その言葉で、部屋の温度が下がる。
佐伯がようやく口を開く。
「止めるタイミング、何回もありました」
声が震えている。
「でも……怖かったです」
その一言が、妙に現実的だった。
怖い。
怒られること。
空気を壊すこと。
嫌われること。
その全部が、命より軽く扱われていた。
小畑はゆっくり口を開く。
「俺も……止められなかった」
言った瞬間、喉が焼ける。
それは言い訳ではない。
でも、責任の分散にもならない。
田中が顔を上げる。
「でも小畑さん、ずっとリードしてましたよね」
その言葉が刺さる。
リード。
主導。
中心。
その自覚はあった。
場を回していた。
盛り上げていた。
飲ませていた。
でもそれを“罪”として認識していなかった。
小畑は答えられない。
市村がぽつりと言う。
「俺らも同じっすけどね」
その一言で、また沈黙が落ちる。
誰も完全には逃げられない。
誰も完全には主犯でもない。
だからこそ、全員が苦しい。
そのとき、奥のドアが開く。
刑事が資料を持って出てくる。
「少し整理します」
全員が顔を上げる。
刑事は淡々と言う。
「本件は、単なる飲み会の範疇を超えている可能性があります」
その言葉で、空気が固まる。
「被害者の方は、複数回の明確な拒否を示している」
「それに対し、飲酒の継続があった」
小畑の胸が締まる。
事実が整理されていく。
言い訳が削られていく。
「さらに、体調悪化の兆候が複数確認されています」
白石が顔を伏せる。
「その時点での救急要請は遅れている」
刑事は資料を閉じる。
「つまり、“判断の遅れ”ではなく、“判断の不作為”に近い」
不作為。
その言葉が重い。
何もしなかったことが、責任になる。
小畑の頭の中で何かが崩れる。
“やらなかった”ことが罪になる。
それは逃げ道を完全に塞ぐ。
田中が小さく呟く。
「そんな言い方されたら……」
続かない。
市村も黙る。
白石は震えている。
佐伯は視線を落としたまま動かない。
小畑は机の上を見つめる。
そこには何もない。
でも、何かが積み重なっている感覚だけがある。
言葉。
沈黙。
笑い。
空気。
全部が。
刑事は最後に言う。
「今後、個別の関与についてさらに詳細に確認します」
扉が閉まる。
音がやけに大きい。
残された全員が、同じ方向を見ないまま座っている。
誰も正面を向けない。
向けないまま、同じ結論だけが浮かぶ。
“自分は無関係ではない”
それだけが、全員に共通していた。




