第3話 遺族の思い
広岡直美は、病院の待合室に座ったまま動けなかった。
夜が明けても、時間の感覚がない。
コーヒーの紙カップは手の中で冷えている。
一口も飲んでいない。
医師の言葉はまだ頭の中で反響している。
「残念ですが」
その一言だけが、何度も繰り返される。
隣の席には、誰もいない。
本来なら、今朝は夫と朝食を食べているはずだった。
「今日は休み取れるかも」
昨夜のメッセージで、そう書いていた。
既読はついていない。
そのまま帰ってこなかった。
帰ってこない。
その現実だけが、少しずつ形を持っていく。
白い壁。
消毒液の匂い。
遠くの足音。
全部が現実なのに、どこか別の世界のようだった。
病室のドアが開く。
白石夏美が入ってくる。
顔色が悪い。
目が赤い。
「奥様……」
その呼び方で、直美は少しだけ現実に引き戻される。
「……翔平は?」
声が掠れている。
白石は一瞬、言葉を失う。
昨日から何度も繰り返した言葉。
それでも慣れない。
「……亡くなられました」
その瞬間、直美の表情が止まる。
理解が追いついていない顔。
「……え?」
小さな声。
意味を持たない音。
白石は目を伏せる。
「昨夜、搬送された時にはすでに……」
そこまで聞いたところで、直美はゆっくり立ち上がる。
足が震えている。
「……嘘ですよね?」
その問いに、白石は答えられない。
嘘にしてほしい。
そう思っているのは白石の方だった。
直美は一歩後退する。
壁に手をつく。
呼吸が乱れる。
「昨日まで……普通に……」
言葉が途切れる。
普通。
その言葉が崩れる。
直美はスマホを取り出す。
画面には、昨日のメッセージが残っている。
《酔ってるだけ?》
たったそれだけ。
それに返信がないまま、夫は帰ってこなかった。
直美は突然、声を荒げる。
「何があったんですか!!」
その声が病院の廊下に響く。
白石は肩を震わせる。
説明しようとして、言葉が出ない。
飲み会。
アルコール。
無理やり。
止められなかった。
どれも正しい。
でも全部、足りない。
「会社の飲み会で……」
白石がようやく言う。
直美の顔が強張る。
「飲み会……?」
その瞬間、視線が鋭くなる。
「それで死んだんですか?」
白石は答えられない。
沈黙。
それが答えになる。
直美の中で、何かが切れる音がした。
「ふざけないでください」
声が震えている。
怒りと悲しみが混ざっている。
「飲み会で人が死ぬってどういうことですか」
白石は頭を下げる。
「申し訳ありません……」
その言葉が空虚に響く。
直美はそれを聞きながら、ゆっくり座り込む。
膝が崩れる。
「翔平は……お酒弱いって言ってたじゃないですか」
その言葉に、白石は強く頷く。
「はい……」
「じゃあなんで……」
声が途中で途切れる。
理由がない。
どんな説明も届かない。
直美は拳を握る。
「止められなかったんですか?」
その問いに、白石は一瞬だけ顔を上げる。
止めたかった。
でも止められなかった。
空気。
同調。
役割。
それを説明しようとしても、言い訳にしかならない。
「……止めるべきでした」
白石の声は震えていた。
直美はその言葉を聞いても、納得しない。
「それでも、止めなかったんですよね?」
その一言が重い。
白石は何も言えない。
直美はゆっくり立ち上がる。
顔は涙で濡れている。
だが目は乾いている。
怒りの方が強い。
「誰がやったんですか」
その問いは、単純だった。
白石は答える。
「詳しくは……警察が……」
直美は首を振る。
「そんなの関係ない」
一歩前に出る。
「私の夫を、誰がこうしたんですか」
その言葉で、白石は初めてはっきり理解する。
これは“事故”ではない。
誰かの人生を壊した結果だ。
その責任を、誰かに向けなければならない。
白石は小さく言う。
「……その場にいた全員です」
その瞬間、直美の目が変わる。
「全員?」
白石は頷く。
「止められたはずなのに……」
そこまで言ったところで、言葉が詰まる。
自分自身もその一人だからだ。
直美は震えながら言う。
「じゃあ、その人たちは今どこにいるんですか」
白石は答えられない。
警察。
事情聴取。
逃げ場のない場所。
それでも、直美の中ではまだ現実が追いつかない。
夫はもういない。
でも原因は曖昧なまま。
飲み会。
アルコール。
空気。
そんな言葉では足りない。
直美はスマホを握りしめる。
「……許さない」
小さく、しかし確かに言った。
その声は震えている。
怒りと喪失が混ざっている。
白石はその言葉を受け止めるしかなかった。
病院の外では、普通の朝が続いている。
人が歩き、車が走り、日常が流れている。
その裏で、一つの人生が完全に消えていた。
そしてその事実だけが、重く残っていた。




