第1巻第5話暴力の波
オラァッ! 死ねや新参者がぁッ!」
酒場のボスが、丸太のような腕を振り回して殴りかかってくる。風を切る凄まじい風圧。まともに食らえば骨ごと砕けかねない一撃だ。
しかし、稲川翔はそれを紙一重の踏み込みと首の傾げだけで、軽々と、かつ優雅に避けてみせた。
「おっと」
「この、チョロチョロと……ッ!」
激昂したボスが、二の矢、三の矢と次々に拳を突き出す。左右のフック、強引なアッパー。だが、そのどれもが翔の着流しの裾を揺らすだけで、虚空を切るに留まった。
翔は冷徹な目でボスの動きを見ていた。ただ逃げ回っているわけではない。日本の裏社会で幾度となく死線をくぐり抜けてきた翔の眼光は、男の重心の移動、肩の引き方、視線の動きから、その攻撃の「癖」と「弱点」を完全にプロファイリング(分析)していた。
(――大振り。右に踏み込む時、必ず左の脇が甘くなる。それに、無駄な力み。こんな戦い方じゃあ、すぐにガス欠だ)
数分後。息を荒くし、すべての攻撃をかわされ続けたボスの動きが、目に見えて鈍くなってきた。大粒の汗が男の額を流れ、拳のキレが完全に失われる。
「ハァ、ハァ……くそっ、なんで、当たらねえ……ッ!」
「よし。――チャンスだな」
翔の目が、獲物を捉えた猛禽のそれに変わった。
防御に徹していた姿勢から、一瞬で反転攻勢。そこから始まったのは、異世界の住人が見たこともない、流れるようなプロの暴力の波だった。
まずはボスの意識を下に向けさせる、強烈なローキック。正確に膝の裏を撃ち抜かれたボスの巨体がガクンと揺らぐ。
体勢の崩れた男の鳩尾(腹)へ、抉り込むような左ボディブロー。ドスッ、と鈍い音が響き、ボスの口から胃液が飛び散る。
「が、はっ――」
苦痛に顔を歪め、前傾姿勢になったボスの頸動脈(首)へ、容赦のない手刀が叩き込まれた。脳への血流が一瞬で遮断され、ボスの視界が暗転する。
そして仕上げと言わんばかりに、無防備になった顔面へ、翔の硬質な右ストレートが真っ直ぐに突き刺さった。
ドゴォッ!!!
鼻骨が砕ける派手な音が、静まり返った建物内に木霊する。
それはあまりにも一方的で、あまりにも残酷な、洗練された暴力の芸術だった。
ドサリ、と糸の切れた人形のように、酒場のボスが床へ崩れ落ちる。白目を剥き、ピクリとも動かない。完全に意識を刈り取られ、あっけなく伸されていた。
静寂がその場を支配する。翔は捲り上げていた着流しの袖をゆっくりと戻し、軽く拳を振って、何事もなかったかのように懐から煙草を取り出した。
「……ハッ、殴り合いに自信があるって割には、大したことねえな」
ライターの火が、翔の冷酷な横顔を照らし出す。
包囲していた酒場の荒くれ者たちは、あまりの恐怖に悲鳴を上げることすら忘れ、ただただガタガタと震えながら、新たな「怪物」の誕生をその目に焼き付けていた。
白目を剥いて転がるボスの死体一歩手前の姿を見下ろしながら、稲川翔はゆっくりと紫煙を吐き出した。そして、怯え震える酒場の荒くれ者たちへ、冷徹な視線を向ける。
「――さあ、さあ。これで勝負はついたな」
翔の声は低く、だが建物の隅々にまで恐ろしいほどよく響いた。
「これより、酒場もといお前たちは俺の下についた。もし、この結果に不満があるっていう骨のある奴は、今すぐ手を挙げな。俺がそいつと、タイマンでも、複数でも、まとめて相手してやるよ。……ただし、次からは『拳の喧嘩』じゃねえ。本気の殺し合いをしてやるよォっ!?!?」
その瞬間、翔から放たれたのは、日本の裏社会の頂点に立つ者だけが持つ、文字通り息の根を止めんばかりの凶悪な殺気だった。
酒場の手下たちは、誰一人として手を挙げる者はいなかった。それどころか、背後で包囲していたはずの、元からいた五十人の私兵たちまでもが、我がボスの底知れない恐怖に背筋を凍らせてガタガタと震えていたほどだ。
圧倒的な恐怖による完全な統治。
こうして、五十人の追い剥ぎに続き、酒場の荒くれ者四十人が新たに翔の配下へと加わった。
「シイナ。野郎どものまとめ、任せるぞ」
「は、はいっ! 承知しました!」
すぐさまシイナが動き出した。その仕事は驚くほど早かった。
シイナは即座に九十人となった男たちを分析。酒場の荒くれ者たちを元々の十人ずつの班へ分散して配置し、戦闘力のある者を前衛に、土地勘のある者を情報収集にと、新しい隊の編成や人員増強などの細かい調整を、淀みなく次々とこなしていく。
気弱な元学者だった青年は、翔という絶対的な後ろ盾を得たことで、その卓越した知性を「組織の構築」という形で遺憾なく発揮し始めていた。
テキパキと男たちに指示を飛ばすシイナの姿を見て、翔は満足そうに口元を歪めた。
『シイナ、お前本当に仕事が早くて助かるな。うちの組に迎えて正解だったよ」
「いえいえ、ボスのおかげです。稲川さんがその圧倒的な力で道を作ってくださるから、私は自分の得意な『整理』をしているだけですから」
謙遜しながらも手際よく書類と男たちを捌いていくシイナを見て、翔は満足そうに口元を歪めた。だが、その目はまだ完全に据わったままだ。
「あ、そうだシイナ。お前の隊から十人くらい借りていいか?」
「え? あ、はい、大丈夫ですけど……。なぜです? 人員の配置換えですか?」
シイナが不思議そうにメガネの奥の目を瞬かせると、翔は懐のナガドスの柄を親指でカチリと押し上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「まだ裏路地の追い剥ぎがいるだろ。ちょっと暴れてくる。……さっきの一騎討ちだけだと、どうにも物足りねえからな」
「えっ……じゅ、十人ですよ!? もう少し連れて行った方がいいです! 裏路地の奴らは徒党を組んでいて、少なくとも四十人はいますよっ!?」
シイナが慌てて声を裏返した。いくら翔が強くても、数で四倍以上の相手に、しかも狭く視界の悪い裏路地で戦うのは自殺行為に等しい。
「まあ、大丈夫だろ」
翔は軽く手を振ると、シイナが驚愕で固まるのも構わず、すでに怯えから完全に覚醒して目をぎらつかせている屈強な私兵を十人、指先で選別した。
「じゃ、吉報に期待しとけよ」
「ちょ……ちょっと、ボス――っ!?!?」
シイナの制止の声を背中で聞き流しながら、翔は選ばれた十人の男たちを引き連れ、廃墟街の最も暗く深い、裏路地の闇へと堂々と足を踏み入れていった。
ここからシイナが苦労人やツッコミ担当になっていくのであった




