第2巻第21話「東義慶、立つ」
深夜の東廃墟街。その中心にある東義慶のアジトの前には、最上階で大商人ガバルドの息の根を平然と止めた男――首領の稲川翔が、着流しのポケットに手を突っ込み、くわえ煙草の煙を吐き出しながら、すでに悠然と待っていた。
「……フゥ。帰ってきたか」
翔の濁った両目の先、夜闇の街道の彼方から、地鳴りのような足音が近づいてくる。
先頭を歩くのは、完璧に人質を救出したシイナ。そして酒の匂いをプンプンと漂わせたギタとカブ。その後ろには、自由の身となったラズ率いる二百人の最強の剣闘士たちと、興奮冷めやらぬ東義慶の私兵たちが、総勢五百人近い大軍勢となって押し寄せてきた。
アジトの前に立つ翔の姿を見るなり、シイナがメガネを怒りで揺らしながら足早に詰め寄ってきた。
「ボス! 聞いてください! ギタさんとカブさんの二人、ただの乱闘騒ぎ(陽動)って言ったのに、あんな所で敵の『耳』を切り落としたりして大暴れして……本当に手が付けられない狂犬なんですからね!」
「すまない、シイナさん。なんだか酒が回りすぎていてな、暴れていた時の記憶が綺麗さっぱり無いのだ」
巨体のギタが、申し訳なさそうに頭を掻きながら惚ける。
「ヒャハハ! 楽しかったからいいじゃん! しっかしラズ、あんたマジで強いな! 背後から国軍の防衛線を丸ごとすり潰すなんてよォ!」
「ここが……稲川翔の拠点か……」
カブが笑う横で、錆びたハルバード(大斧槍)を担いだラズが、アジトの重厚な佇まいと、その中心で圧倒的な貫禄を放つ翔の姿をじっと見つめた。
翔はくわえていた煙草を床に落として踏み消すと、両手を広げて不敵な笑みを浮かべた。
「よし。――まずは野郎ども、無事に戻ってきたな。流石だ!」
そして、翔の鋭い眼光がシイナへと向けられる。
「しかしシイナ! いくら時間が余ってたからって、監獄から剣闘士の家族や奴隷を『全員残さず』助け出してくるとは、さすがにやりすぎだぞ! ――だが、まあ、最高の結果だ。よくやったな」
「恐縮です、ボス」
シイナがニヤリと、とんでもない無頼の笑みを浮かべる。
翔はそのまま一歩前へ進み出ると、広場を埋め尽くす五百人の無頼漢たち、そして未だに警戒を解いていない剣闘士たちを真っ直ぐに見据え、ドスの利いた声を張り上げた。
「俺の名前は稲川翔! この『東義慶』のボスだ!!」
その場にいる全員が、翔の放つ、チート能力なき身一つから滲み出る圧倒的な『首領の器』に気圧されて静まり返る。翔はクツクツと喉を鳴らして笑うと、とんでもなく白々しい口調で言葉を続けた。
「そして――今夜、とても、とーっても残念なお知らせがある! 俺たちが裏闘技場を視察していた最中、あの偉大なる大商人ガバルドさんが、どこの誰だか分からない凶悪な『暴漢』に、不運にも腹を裂かれてやられてしまったらしい! いやぁ、本当に、実にもったいない、残念な事件だったなぁ!?」
翔のその言葉に、元からいた東義慶の私兵たちは「ハッ、そいつは実に残念ですねぇ!」とニヤニヤしながら一斉にドッと笑い声を上げた。一方で、事情を知らない新入りの剣闘士たちは、この黒髪の男のあまりにも不気味で冷徹なすっとぼけ(狂言)に、完全に呆気にとられて固まっていた。
「……というわけだ」
翔の目が、ギラリと狼のように細められた。
「諸悪の根源だったガバルドは死んだ。奴が握っていたお前たちの借金も、お前らを縛り付けていた契約書も、今この瞬間にすべてこの世から綺麗さっぱり無くなった。――今日から、君たちは全員、完全なる自由の身だ。誰の犬になる必要もねえ」
自由。その言葉に、剣闘士たちの身体が震える。だが、翔は彼らに考える隙を与えず、さらに彼らの胸の奥にある『誇り』へ向けて、熱い言葉の弾丸を叩き込んだ。
「だがな……! このまま、ただカタギの暮らしに戻って本当にいいのか? あのクズみたいな国軍や貴族どもは、この大陸のあちこちで、今もお前たちと同じように理不尽に民を虐げ、家を焼き、人質を取って同じような地獄を繰り返してやがる」
翔はナガドス(長ドス)を抜き放ち、その刃を夜空へと掲げた。松明の赤い炎が、鋭い刃を怪しく照らし出す。
「お前らのその最強の武力、泥の中で燻らせて終わるにゃあ勿体ねえだろ。……もし、あの虫どもに一矢報いてやりてえってんなら、この『東義慶』と共に奴らの首を片っ端から撥ね飛ばし――俺たち無頼漢が全てを決める、本物の『無頼漢の時代』を、この手で一緒に作ってみないか!? 選べや!!」
その瞬間、五百人の無頼漢たちの血が、一気に沸騰した。
ただの奴隷、ただの悪党として泥水をすすってきた男たちの魂に、世界を裏社会のルールで塗り替えるという最凶の理想郷が、完璧に突き刺さったのだ。
「――は、はは……っ! 面白い、最高じゃねえか……!!」
ハルバードを握りしめたラズが、今日一番の獰猛な笑みを浮かべ、翔の前に真っ直ぐに進み出て、ドサリとその場に片膝を突いた。
「あんたが俺たちの新しい『ボス』か。……そのデカい神輿、俺たち二百人の剣闘士(戦士)全員で、大陸の頂点まで担ぎ上げてやるよ!!」
「「「オゥッ!!!!!!」」」
ラズに続き、五百人の男たちが一斉に翔の足元へ跪き、地を揺らすような絶対の忠誠の怒号を響かせた。
チートなき極道・稲川翔。
最高頭脳のシイナ、最凶武力の血塗れ兄弟、そして最強の盾ラズと、五百人の武装私兵軍団。
のちに大陸全土を血と恐怖で震撼させ、すべてを支配する最凶の帝国『東義慶』が、この不気味な廃墟街の地から、ついにその圧倒的な一歩を踏み出したのだった。




