第2巻第 14話「無敗の王者の軛」
――ガラン、と冷たい鉄格子の閉まる音が、地下の薄暗い控室に響き渡る。
観客たちの耳を聾するような狂気の歓声が、遥か頭上から地響きのように伝わってくる。そこは、血と欲が渦巻く裏闘技場の底。出番を待つ剣闘士(奴隷)たちが押し込められる、死の待合室だった。
部屋の隅、冷たい石壁に背を預け、一人の男が座っていた。
錆びたハルバード(大斧槍)を無造作に足元に置き、大きな身体を縮めるようにしているその男――彼こそが、この地獄で十年間、ただの一度も敗北を知らない絶対的な王者、ラズだった。
衣服の隙間から覗く肌には、数え切れないほどの凄惨な傷跡が深く刻まれている。
十年間、殺し続けてきた。生き残るために、敵を肉塊に変え続けてきた。周囲の奴隷たちはラズを「死神」と呼んで恐れ、観客たちは「無敗的魔王」と呼んで熱狂する。
だが、ラズの傷だらけの顔に浮かんでいるのは、勝利の栄光でも殺戮の快感でもない。
ただ、底の抜けた絶望に浸された、心あらずな、ひどく冷め切った瞳だった。
(……あと、何人殺せば終わる)
ラズが守り続けているのは、己の命ではない。
この闘技場のさらに最下層、油煙の臭いが漂うランプの光しか届かない厳重な監獄に幽閉されている、たった一人の父親の命だった。
亡き母親が遺した、大商人ガバルドへの莫大な借金。それを肩代わりして首の回らなくなった父親を救うため、ラズは十年前、みずからこの地獄の契約書に血のサインをし、身代わりとなって裏闘技場へ身を投じた。
『いいかい、ラズ。お前が勝ち続ける限り、父親の飯の中に毒は混ぜないでおいてやる。だが、もし一度でも負けたり、私に逆らうような真似をしてみろ。次の瞬間には、あの老い損ないの首が闘技場の砂舞台に転がることになるからねぇ』
VIPルームの特等席から、いつも下卑た笑みを浮かべて見下ろしてくる大商人ガバルドの、ねっとりとした声が脳裏に張り付いて離れない。
ガバルドという豚の財布を肥やすために、ラズは今日もハルバードを握り、人を殺す。父親という名の最強の『軛』に繋がれたまま、ラズの魂は十年前から死んだも同然だった。
ハルバードの柄を強く握りしめ、ラズは小さく息を吐いた。
(……いや、何かが変わろうとしている)
ここ数日、裏闘技場の空気は奇妙に浮足立っていた。
観客の悪党どもや、ガバルドの用心棒たちの口から、ある一つの不気味な噂が何度も囁かれているのを、ラズの鋭い耳は捉えていた。
――稲川翔。
出所も分からない妙な服を着た男が、わずか数日で廃墟街の酒場も、裏路地も、あの狡猾な盗賊ギルドをも力と恐怖で完全に飲み干し、数百人規模の巨大な無頼漢組織『東義慶』を立ち上げたという。
ただの身一つで、裏社会の頂点へ登り詰めようとしている怪物。
ガバルドはその新参者の存在をひどく忌々しそうに、回廊の警備兵を増やしながら警戒しているらしかった。
「おい、ラズ! 出番だ、檻を開けるぞ!」
見張りの怒鳴り声と共に、頑丈な鉄扉が跳ね上がる。通路の壁に掲げられた松明の赤い炎が、砂舞台へと続く暗い通路をギラギラと照らし出した。
「……フゥ」
ラズはゆっくりと立ち上がり、錆びたハルバードを肩に担いだ。
胸を突くのは、嵐の前の静けさのような、妙にざわつく胸騒ぎ。
(稲川、翔……。もしお前が本物の怪物なら、この退屈で反吐が出る地獄を、ひっくり返して見せてくれよ……)
無敗の王者は、濁った瞳に微かな、本当に微かな期待の火を灯しながら、血と欲が渦巻く歓声の舞台へと足を踏み出していった。
彼らはまだ知らなかった。その『稲川翔』が率いる東義慶の全軍勢が、いま、まさにラズの父親を救い出し、ガバルドを血の海に沈めるための最凶のカチコミ(作戦)を開始したことを――。




