第2巻第7話闇夜の猛火
夜の帳が、廃墟街の西側に広がる丘陵地帯を深く包み込んでいた。
そこにあるのは、三十人の手下を抱える盗賊団『赤蛇の一味』の堅牢なアジト。昼間の警戒を怠らない泥棒どもを、チートなしの三十人の私兵で正面から叩くのは割に合わない。
だからこそ、稲川翔の選んだ手段は、冷徹極まる心理戦だった。
「――よし、火を放て。デカい声を出して騒ぎ立てろ」
闇に紛れてアジトの周囲を取り囲んだ私兵たちに、翔が静かに命令を下す。
次の瞬間、アジトの裏手からパチパチと不気味な音が弾け、一気に猛烈な炎と煙が夜空を焦がした。乾燥した夜風に煽られ、火の手は瞬く間にアジトの木造部分へと燃え広がる。
「おいっ! 火事だ! 火事だぁっ!!」
「裏手が燃えてやがるぞ! 早く水を運べっ!!」
静寂を引き裂く私兵たちの怒号。
突然の猛火と、周囲から聞こえる悲鳴に、アジトの中にいた三十人の盗賊どもは完全にパニックに陥った。彼らは煙に巻かれ、武器を握ることも忘れて右往左往し始める。
「おい、そっちの棚の物資を運び出せ! 早くしろ!」
煙が充満する混乱の中、翔と三十人の私兵たちは、あらかじめ奪っておいた敵の衣服を纏い、完全に「味方のフリ」をして堂々とアジトの敷居を跨いだ。
誰も、目の前を通り過ぎる着流しの男が、自分たちを喰らいにきた『新参者の化け物』だとは気づかない。怒鳴り声と煙、そして飛び交う火の粉が、盗賊どもの五感を完全に狂わせていた。
翔は濁った瞳で、アジトの奥――一際激しく怒鳴り散らしている大男を見据えた。
奴が、この盗賊団のボスだ。
「おいお前ら! 突っ立ってんじゃねえ! 早く火を消し――」
ボスが指示を飛ばそうと口を開いた、その瞬間だった。
ボスの背後の闇が、すっと歪んだ。
キィン、と硬質な金属音が、火事の爆ぜる音に混ざって低く響く。
次の瞬間には、ボスの首筋に、冷徹極まる鈍色の刃――ナガドスがぴったりと押し当てられていた。
「が……あ?」
ボスが短い声を上げ、全身の血の気が引いて固まる。
背後に音もなく立っていたのは、くわえ煙草のまま、冷たい目で自分を見下ろしている稲川翔だった。
「動くなよ、泥棒の親玉さん。少しでも喉仏を動かしてみろ、その瞬間に首床に転がすぞ」
地獄の底から響くようなドスの利いた声。
ボスの異変に気づいた周囲の盗賊どもが、慌てて武器を構えようとするが、すでに「味方のフリ」をしていた三十人の私兵たちが、一斉に敵の背後から鉄剣の切っ先を突き付けていた。
「おい、お前らのボスの命が惜しけりゃ、全員そのふざけた武器を床に置きな」
翔は煙草の煙をボスの顔に吹きかけながら、周囲の男たちを一瞥した。
「ウチの看板『東義慶』の下につくか、このまま火事で消し炭になるか……選ばせてやるよ」
完璧な逆包囲、そして瞬時のチェックメイト。
火事の恐怖と、ボスの命を完全に握られた絶望の前に、三十人の盗賊どもは戦意を完全に喪失し、次々と武器を地面に落として跪いた。
北の山賊に続き、西の盗賊団をも無傷で完全制圧。
これで組織の兵力は、一気に総勢二百二十二人。
チートなき極道・稲川翔の放った闇夜の猛火は、廃墟街周辺の裏社会を、名実ともにすべて焼き尽くし、塗り替えてしまっていた。




