第2巻3話 狂犬とボス
東の山へと踏み込んだ稲川翔は、選りすぐりの五十人の私兵を背後に従え、薄暗い木々の中を進んでいた。
山道を進むにつれ、鼻腔を突いたのは強烈な死臭だった。そのドス黒い匂いを辿り、開けた広場に出た瞬間、私兵たちの間に冷たい緊張が走る。
そこは、地獄絵図だった。
辺り一面に国軍兵士たちの無惨な亡骸が散らばっている。そしてその中心で、返り血を浴びて全身を赤く染めた二人の男が、ケラケラと笑いながら未だに死体を踏み潰していた。
『血塗れ兄弟』ギタとカブ。
気配を察した弟のカブが、血濡れたメイスを肩に担ぎ直し、ぎらついた目で翔を振り返った。
「おやおや……。最近、下のゴミ溜めに流れてきた奴じゃん。確か名前は、稲川翔だったかな?」
熊のような巨体の兄、ギタが、大弓を握り直して不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ふん。わざわざ五十人も連れてこの山に登ってくるとは……俺たちの首に懸かった賞金が目当てか?」
並の悪党なら一歩退くほどの凶悪なオーラ。だが、翔はくわえ煙草のまま、転がる国軍の死体へと冷たい一瞥をくれただけだった。
「いや、俺は国軍の犬じゃねえ。むしろ逆(裏社会)の人間だ。ギタ、カブよ……しかし、良い仕事をするじゃねえか。一体、何人殺した?」
翔のその言葉に、カブは一瞬呆気にとられた後、狂ったような爆笑を上げた。
「ハハハ! おもしろいな、あんた! 国軍のやった数なんて忘れたさ、多すぎて数えちゃいねえよ!」
「まるで、潰しても潰しても湧いてくる虫のようだからな」
ギタが忌々しそうに吐き捨てる。
「そうだな。国家の看板を背負って民のシマ(故郷)を荒らす、まさに最悪の虫だ」
翔は一歩、兄弟に向けて歩みを進めた。煙草の煙が風に揺れる。
「――だが、そんな虫どものせいで山を焼かれ、失意の中で死んでいった君たちの父親は、さぞかし無念だったろうな」
その瞬間、教会の空気が爆発した。
「貴様ァッ!!」
ギタの目が怒りで血走り、人間業とは思えない神速の動作で大弓が引き絞られた。
私兵たちが「ボスっ!?」と悲鳴を上げるより早く、放たれた太い矢が空気を切り裂く。
ヒュッ!!!!
凄まじい風切り音と共に、矢は翔の頬の皮膚を、わずか数ミリの差で掠めて背後の大木へと深く突き刺さった。翔の頬から、一筋の赤い血がタラリと流れ落ちる。
だが――稲川翔は、まばたき一つしていなかった。
矢が放たれた瞬間も、頬を血が伝う今も、その濁った両目は真っ直ぐにギタを射抜いたままだ。死線を幾度もくぐり抜けた極道の首領の肝は、異世界の賞金首の矢ごときでは、1ミリも揺るがない。
「ハッ……いい腕じゃねえか」
翔は頬の血を親指で拭うと、それをペロリと舐め、獰猛な狼の笑みを浮かべた。
チートなき極道が、東の山の狂犬たちをその「器」で圧倒する、命懸けのハメ手の幕が上がろうとしていた。
神速の矢が頬を掠めてなお、微動だにせず自分たちを睨み据える稲川翔。
その底知れない「胆力」を前に、狂犬と呼ばれた兄弟の空気が一瞬で変わった。弟のカブがメイスを下げ、兄の肩を軽く叩く。
『ギタ。――兄貴、一旦落ち着くね」
ギタは荒い息を吐きながら、ゆっくりと大弓を下げた。だが、その目は未だに血走ったままだ。
「……すまない。だが、稲川翔。次は、無い。いいか?」
「すまねえな」
翔は頬を伝う血を拭うこともせず、静かに首を振った。
「侮辱するつもりは毛頭ねえ。君たちの行為は正しいよ。親の無念のため、奪われた名誉のために、裏社会から表のクズどもに反旗を翻す……。ハッ、俺もまったくおんなじだからな」
その言葉に、ギタとカブは微かに目を見張った。
ただ賞金目当てに命を奪いにくる兵士や、金で命を買おうとする泥棒ギルドとは違う。この黒髪の男は、自分たちの「復讐」と「矜持」を、本物の無頼漢として深く理解していた。
カブがニヤリと、今度は狂気ではなく、純粋な興味の笑みを浮かべて翔に問いかける。
「なあ、稲川翔。なぜこの山に来た? ……ただ、俺たちの過去を語って、お喋りをするために来たわけじゃないだろう」
「正解だ」
翔はくわえ煙草の先を赤く光らせ、濁った瞳で兄弟を真っ直ぐに見据えた。
「血塗れ兄弟ギタ、カブ。――お前ら二人、うちの組織(東義慶)の傘下に入れ」
五十人の私兵たちが息を呑む中、翔は傲然と言い放つ。
「俺の身内になれ。お前らが欲しがっている『殺人許可書(大義名分)』をやる。ウチの看板を背負っている限り、国軍をどれだけブチ殺そうが、どれだけ暴力を振るおうがすべて自由だ。お前らの復讐、ウチの組織(組)が丸ごと保証してやるよ」
「……何だと?」
ギルドボスの贈り物など鼻で笑ったギタが、初めてその言葉の重みに声を低くした。だが、すぐに冷徹な目を向け直す。
「だが、なぜお前の下につかないとダメなんだ? 俺たちは二人だけで、十分に国軍を殺せている」
「二人だけで殺せる数なんて、たかが知れてるだろ」
翔は一歩、兄弟の懐へと堂々と踏み込んだ。チートなき身一つ。だが、背負っている「器の格」が、教会の空間そのものを支配していた。
「俺はな、いずれこの国を奪る。国軍や、貴族や、大商人どもがふんぞり返って全てを決める世界じゃなく――俺たち『無頼漢』のロジックで全てが決まる、本物の無頼漢の時代を作る」
国を奪る。そのあまりにも壮大で、あまりにも凶悪な野心に、東の山を揺らす風さえも止まったかのような錯覚を覚える。
「その最凶の帝国を築くために、お前ら二人の圧倒的な武力が必要なんだ。二人でコソコソ山狩りをする泥泥の復讐で終わるか、俺の切り込み隊長として国ごとあの虫どもを磨り潰すか……どっちが面白いか、選べや」
チートなき首領・稲川翔。
その男が提示した、世界を裏社会のルールで塗り替えるという悪の理想郷。
泥の中で吠えるだけだった二頭の狂犬の首輪を、本物の極道のロジックが、今まさに完璧に捉えようとしていた。
ここの稲川翔かっこ良くないですか?!
書いててびっくりしてしまった。




