第2巻第1話東の山の狂犬
とうとう第2巻に入ります。
――東の山には、近づいてはならない。
そこは国家の法も、貴族の権威も通じない、泥と血に塗れた悪魔の領域。そこに棲まうのは、周辺の国々から恐れられる賞金首、『血塗れ兄弟』のギタとカブだった。
「ひ、聞け! 来るな、この田舎者の化け物どもがぁっ!」
静かな山林に、無様な悲鳴が木霊する。
声を上げたのは、きらびやかな漆鎧を纏った一人の貴族だった。その周囲には、国軍の精鋭兵たちが十数人、物言わぬ死体の山となって転がっている。彼らはこの山へ、貴重な高級毛皮の密猟と、賞金首狩りを兼ねてやってきた、いわば表の権力者たちだった。
だが、彼らは運悪く、この山の真の主を怒らせてしまったのだ。
「ヒャハッ! 何が国軍だ、何が貴族様だ! 鈍くて、脆くて、ちっとも面白くねえなぁ!」
返り血を浴びながら狂ったように笑うのは、弟のカブだった。小柄ながらも獣のような俊敏さで、手にした槍で兵士の足元を払って転がし、すかさず鉄製のメイス(頭潰し)を振り下ろして頭蓋を容赦なく叩き割っていく。
「カブ、遊びが過ぎるぞ。さっさと片付けろ」
背後から地響きのような低い声をかけたのは、兄のギタだ。熊のような巨体に、巨大な長弓を背負っている。
逃げようとする兵士がいれば、ギタの恐るべき筋力から放たれる太い矢が、その背中を正確に射抜いて地面に縫い付けた。少しでも間合いが詰まれば、腰のホルダーから抜いた投げ斧が、寸分の狂いもなく標的の脳天や喉元へ突き刺さる。
ギタの圧倒的な遠距離の「追い込み」から、誰も逃れることはできない。そして退路を断たれ、パニックになった獲物を、カブが槍とメイスで確実に「トドメ」を刺す。これが二人の、国軍すら蹂躙する完璧な屠殺のロジックだった。
「ぎ、ギィ、命だけは……私はこの領地の――」
貴族の男が涙と鼻水を流して命乞いを始めるが、カブは一瞥すらくれず、冷酷にメイスを振り下ろした。鈍い骨の砕ける音が響き、山は再び静寂を取り戻す。
「ふぅ……。前回の泥棒ギルドの使者といい、最近入ってくる奴らはどいつもこいつも歯ごたえがねえな」
カブが死体の衣服でメイスの血を拭いながら、つまらなそうに吐き捨てた。ギルドボスが貢いできた金目の物も、彼らにとってはただの玩具に過ぎなかった。
「……だが、カブ。最近、下の廃墟街で面白い噂が流れているぞ」
ギタが長弓の手入れをしながら、不敵な笑みを浮かべた。
「面白い噂? あの小汚いゴミ溜めの街で?」
「ああ。なんでも、『稲川翔』とかいう、出所も分からねえ奇妙な服を着た男が、たった一日で酒場の荒くれ者も、裏路地の追い剥ぎも、あの生意気な盗賊ギルドまでもを、力と恐怖で完全に叩き潰して自分の配下にしたらしい」
「へえ……?」
カブの目が、獲物を見つけた蛇のようにギラリと細められた。
「あのケチなギルドボスが、震える声でその稲川って男に命乞いをして、組織ごと丸ごと乗っ取られたそうだ。武器の扱いが異常に美味い、ただの『身一つ』の男だって話だがな」
「ヒャハハ! 魔法も何もねえこの時代に、ただの身一つであの街を全部飲み込んじまったってわけ? 面白い奴が来たねえ、兄貴!」
カブは狂気じみた笑みを浮かべ、メイスの柄をトントンと叩いた。
国家の軍隊すら返り討ちにする自分たちを恐れず、むしろ周囲の勢力を次々と喰らい尽くしている未知の怪物。その『稲川翔』という名が、狂犬兄弟の胸に、かつてない高揚感を植え付けていた。
「使者を送ってくるような腑抜けじゃねえなら、そのうちこっちに牙を剥きにくるかもな」
「いいねえ! もし来たら、どっちの鉄がもっと鋭いか、試してやろうじゃん!」
東の山の頂で、二頭の狂犬が飢えた笑声を上げる。
彼らはまだ知らなかった。自分たちを「殺す」ためではなく、東義慶の『武闘派幹部』として首輪をはめるために、百六十人の武装した私兵軍勢を率いた本物の極道が、すでに山の麓まで迫っていることを――。




