第1巻9話首領の駒
この頃から稲川翔は自分の墨武蔵坊弁慶と日本で世話になった東義会の二つの名前を混ぜて『東義慶』と名乗る様になる
静まり返った教会の中で、盗賊ギルドのボスの脳内には、ただ一文字の言葉だけが浮かんでいた。
――『死』。
それ以外になかった。この黒髪の男に殺される。今、異世界の闇を仕切っていたはずのギルドボスの五感を支配しているものは、底知れない、純粋な恐怖そのものだった。
コツ、コツ、と硬質な足音を響かせ、稲川翔がゆっくりとボスへ近づいていく。
「おい、ギルドボスさんよ。あんた、本当にいいのか? こんな、しなびた教会の床の上で犬死にしてもよォ」
「ひっ……!」
あまりの威圧感に、ボスの取り巻きのギルド員たちが「ボ、ボス……!?」と動揺して色めき立つ。
我が私兵たちも反射的に武器を構え直すが、それを一歩前に出たシイナが手で制した。
「静かに。――今、ボスが懐柔している。余計な手を出すな」
シイナの冷徹な、だが確信に満ちた声に、私兵たちは息を呑んで動きを止めた。
翔は怯えるギルドボスのすぐ目の前まで歩み寄ると、上から冷たく見下ろし、懐から取り出した煙草をくわえた。ライターの小さな火が、悪魔のような不敵な笑みを浮かべた翔の顔を妖しく照らし出す。
「せっかく、その若さで盗賊ギルドのボスまで上り詰めたってのによ。こんな、どこから来たかも分からねえ新参者に首を刎ねられて終わる人生で、本当に満足か? ……もし、まだ生きてぇってんなら、俺の『駒』としてだったら、生かして使ってやるよ」
「え……? ほ、本当、か……?」
ギルドボスは縋り付くような目で翔を見上げた。死の淵で見せられた、唯一の蜘蛛の糸だった。
「ああ。だが、条件がある」
翔はくわえ煙草のまま、教会の床に転がるギルドの男たちを指差した。
「今、目の前にいるオマエの部下どもに、自分の口からはっきりとこう言いな。――『今日から我が盗賊ギルドは、稲川翔の所有物になる。よって、お前たちも今日から稲川翔の私兵だ』ってな。その言葉が聞けりゃ、晴れてお前は俺の役に立つ『一等物の駒』だ」
自らの口で組織の解散と服従を宣言させる。それが、この異世界で最も強固に、そして確実に「盗賊ギルド」という巨大な利権を、組織ごと無傷で飲み干すためのヤクザのハメ手だった。
「……き、聞きな、お前たち」
ギルドボスは乾いた喉を鳴らし、幽霊のように真っ白な顔で三十人の部下たちを振り返った。
「きょ、今日から……我が盗賊ギルドは、稲川翔殿の所有物となる。……よって、お前たちも今日から、い、稲川翔殿の、私兵となる……!」
ボスが最後の一文字を絞り出した瞬間、教会の中に張り詰めていた空気が一気に崩壊した。
ギルド員たちの間に、激しい動揺の波が広がる。
「な、なんだって……! ボスが新参者に降伏したのか!?」
「俺たちのギルドが、乗っ取られた……?」
「ガタガタ抜かすな」
翔がくわえ煙草のまま、床を強く一歩踏み鳴らした。それだけで、周囲を取り囲むシイナ配下の百人以上の私兵たちが、一斉にジャキリと武器の切っ先を突き付けた。逃げ場のない死の包囲網。
「頭がこう言ってるんだ。文句がある奴は、今すぐ前に出て俺と殺し合え。ねえなら、そのふざけた武器を床に置きな」
その言葉が、三十人の取り巻きたちの心を完全にへし折った。
カラン、カラン……と、次々と武器が石畳の床に投げ捨てられ、三十人の盗賊ギルド員たちは、全員がその場に膝を突き、深々と頭を垂れて完全に降伏した。
――こうして、廃墟街のすべての勢力が、名実ともに稲川翔という一人の男の下に統合された。現在の我が組織(組)の総員は、一気に百六十人。
だが、これは極道・稲川翔が異世界に刻む、ほんの序章に過ぎなかった。
それから数日後。
かつての盗賊ギルドの本拠地を改装し、新たに掲げられた最凶の帝国『東義慶』の原型となる事務所。その奥の執務室で、翔はシイナから新たな、そして重大な報告を受けていた。
「ボス、降伏したギルドボスの身辺整理と、彼らの裏帳簿の解読が終わりました。……そこで、とんでもない計画書を見つけましてね」
シイナは興奮を抑えきれない様子で、メガネの位置を直しつつ一冊の分厚いファイルを机に置いた。
「ほう。泥棒の親玉が、裏で何を企んでやがった?」
「あいつ、ただこの廃墟街で燻っているつもりはなかったようです。実はギルドボスは、この廃墟街の周辺一帯で活動しているいくつかの『盗賊団』や『山賊』、大物の『追い剥ぎ集団』に対し、密かに大量の武器や防具を横流しし、供給する準備を進めていました」
「武器の供給、ねぇ……。なんの為だ?」
「周辺の荒くれどもに恩を売り、装備を整えさせ、最終的にはそれらすべての勢力を自分の『私兵』として丸ごと従えるつもりだったんです。この廃墟街を飛び出し、周辺の貴族の領地すら脅かすような、巨大な犯罪シンジケートを作る……それが奴の計画でした。ギルドの地下倉庫には、そのために集められた大量の軍用武器や鉄の防具が、手つかずのまま眠っています」
シイナの報告を聞いた翔は、くわえていた煙草の煙を、天井に向けて長く、深く吐き出した。
そして、その唇が、獰猛な狼のように吊り上がる。
「ハッ……ハハハ! 最高の遺産じゃねえか。あの泥棒猫にしちゃあ、随分とでかい夢を見てやがったな」
翔は立ち上がり、壁に立てかけてあった愛用のナガドスの柄を掴んだ。
チート能力など、やはりこの男には微塵も必要なかった。ギルドボスが残した武器、防具、そして周辺の悪党どものデータ。それらはすべて、今やそのまま翔の財産となったのだ。
「シイナ。その計画、俺たちが丸ごと乗っ取るぞ」
「えっ……と、言いますと?」
「ギルドボスのやり方は生ぬるい。武器を与えて飼い慣らすんじゃねえ。……ウチの百六十人の軍勢にその上等な装備をさせ、周辺の山賊や盗賊団を片っ端から直接叩き潰しに行く。逆らう奴は全員殺し、命乞いする奴は全員ウチの兵隊に組み込んでやる」
翔の目が、ギラリと凶悪な光を放った。
廃墟街の完全統一は、ゴールではない。大陸全土を支配する最凶の帝国への、ただの足がかりだ。
「これより、周辺のクズどもを全員狩り尽くす。……『東義慶』のシマ(縄張り)を、一気に広げるぞ」
チートなき極道・稲川翔による、廃墟街周辺の全勢力を巻き込んだ、さらなる血塗られた勢力拡大の進軍が、今ここに幕を開けた。




