第1巻第7話「首領と若頭の算盤
深夜。崩れかけた石造りの拠点に、重い足音が響く。
稲川翔と十人の私兵たちが、静まり返った闇夜の街道を抜けて悠然と帰還した。
拠点の扉が開いた瞬間、机に広げた羊皮紙にかじりついていたシイナが、弾かれたように立ち上がって真っ先に駆け寄ってくる。
「ボス! 大丈夫ですか!? 怪我はありませんか!?」
メガネを揺らし、本気で心配そうな声を上げる補佐(若頭)のシイナに、翔は羽織ったマントの襟を軽く緩めながら、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。……あと、裏路地の追い剥ぎ四十人は今日からウチの私兵(身内)になった。明日からお前の好きに使いな」
「え……っ!? ほ、本当ですか!?」
シイナは驚愕のあまり、手に持っていた羽ペンを落としそうになった。
わずか十人の手下を連れて夜の裏路地へ消えてから、まだ数時間しか経っていない。四十人もの荒くれ者が割拠する危険な地帯を、文字通り瞬く間に丸ごと飲み込んできたのだ。
「ああ。だが、あの場所から離れたくないらしい。生活の拠点があそこなんだろう。まあ、そこらへんの細かい配置や調整はお前に任せる。もし、引き継ぎの段階でグズグズ抜かす奴や反発する奴がいたら、何人か見せしめに殺して構わねえからな」
翔はそう淡々と言い残すと、懐のナガドスを抜き、使い古された長椅子の脇へと置いた。男たちを恐怖で屈服させた直後だというのに、その表情には一切の興奮も疲弊もない。まるで日常の簡単な仕事を終えただけのように、平然と奥の部屋へ歩いていく。
「じゃ、俺は寝るからな。あとは頼んだぞ、シイナ」
「――はい。おやすみなさい、ボス」
シイナは深く一礼し、首領の背中を見送った。
パタン、と奥の扉が閉まる。
呆気にとられる十人の私兵たちを横目に、シイナはすぐに拾い上げたペンを握り直し、机の上の算盤と羊皮紙に向き直った。
(本当に、とんでもない人を主に選んでしまったな……)
シイナの口元に、恐怖を通り越した歪な高揚感の笑みが浮かぶ。
これで、ウチの組織(組)は総勢百三十人。ただの戦場跡地での目覚めから丸一日で、廃墟街の二大勢力を完全に配下に収めたのだ。
翌朝。
差し込む荒涼とした朝日で目を覚ました稲川翔が、着流しの襟を正して奥の部屋から出てくると、そこにはすでに目を血走らせながら算盤を弾き終えたシイナが待っていた。寝不足のはずだが、その表情はかつてないほど高揚している。
「あ、ボス! お早うございます。さっそく昨夜の戦果と、現在の我が組織についての報告があります」
シイナはメガネを押し上げ、机の上の羊皮紙をトントンと叩いた。
「おう、聞こうじゃねえか」
「はい。現時点で、元々の我が私兵九十人に、昨夜の作戦で裏路地の四十人が完全に傘下に入りました。これにより、合計人数は『百三十人』です。もはや廃墟街に限らず、この周辺地域一帯の勢力の中でも、間違いなく指折りの武力集団になりました。さらに、彼らを使った戦利品漁りについても――好調の一言に尽きます」
翔は懐からタバコを取り出して火をつけ、紫煙を吐き出しながらシイナを見つめた。
「好調、ねぇ……。具体的にどう好調なんだ? ただ人数が増えて拾える量が増えた、ってだけの話じゃねえんだろ」
「さすがボス、その通りです」
シイナはニヤリと、少し不敵な学者の笑みを浮かべた。
「あの四十人の追い剥ぎたちですが……彼らはただのコソ泥ではありませんでした。周辺で起きた大小さまざまな戦争や戦闘のデータ、その戦場跡地の危険性、さらには兵士たちに見つからないための逃走経路まで、完璧に網羅した『生きた情報網』を持っていたんです」
「ほう……」
「どうやら彼らは、その情報を使って命懸けで集めた上質な戦利品を、すべて『盗賊ギルド』に仕入れていたようなのです。ギルド側はその見返りとして、彼らにこの裏路地での安全を保証し、独占的に物資を買い叩いていた……。つまり、あの路地は盗賊ギルドにとって、最も太い『仕入れルート(シノギの心臓)』だったんですよ」
シイナの言葉を聞いた翔の目が、獰猛な三日月のように細められた。
「なるほどなァ」
翔は小さく笑い、煙を天井へと吹きかけた。
「つまり、俺たちが裏路地をシマ(縄張り)にしたことで、盗賊ギルドは一番大事な商品の供給源を、丸ごと俺たちに分捕られたってわけだ」
「その通りです。彼らは今頃、商品の仕入れが完全にストップして、大慌てで裏路地の様子を探らせているはずです。……ボス、手札は揃いました」
チート能力なき極道・稲川翔。
しかし、その手には今や、百三十人の兵力と、最大勢力である盗賊ギルドの首根っこを締め上げるための「最強の経済的弱み」が握られていた。
「よくやった、シイナ。お前の算盤の通りだ」
翔はタバコを揉み消し、ナガドスの柄に手を、しまたニヤリと笑った。
裏路地の仕入れルートを完全に封鎖してから数日後。
ついに、廃墟街の最大勢力である『盗賊ギルド』が動きを見せた。
翔たちの拠点に、一枚の書状を持った使者が現れたのだ。シイナが受け取ったその羊皮紙には、丁寧だがどこか傲慢な筆致で、こう記されていた。
『勇気ある新参者、稲川翔殿。ぜひ一度、裏市の今後の流通について話し合いの席を設けたい』
使者を帰した後、翔は長椅子に深く腰掛け、書状を一瞥してフッと鼻で笑った。
「――ついにきたか。シノギの種を止められて、さすがの泥棒猫どももケツに火がついたらしいな。シイナ、お前はこの招待、どう見る?」
翔が煙草に火をつけながら尋ねると、隣に立つシイナはメガネのブリッジをクイと押し上げ、迷いのない口調で応えた。
「――絶対に罠ですよね。向こうはこれまでこの街を独占してきたプライドがあります。新参者の私たちにシマを奪われたままで納得するはずがありません。話し合いと称してボスを誘い出し、暗殺するか、あるいは法外な条件での服従を迫る気です」
「だろうな」
翔は煙を細く吐き出し、目を細めた。日本の極道社会でも、格下の組織がシマを荒らした際によく使われる手古摺手口だ。
「ですが、これはチャンスでもあります」
シイナの瞳に、知的なぎらつきが宿る。
「向こうが罠を張っているというなら、その裏をかくまでです。相手の予想を超える数の私兵を会談場所の周辺に潜ませ、逆にこちらが主導権を握りたいですね。百三十人の武力を見せつければ、ギルドマスターとて簡単には手を出せません」
翔はシイナの顔を見つめ、獰猛な三日月のような笑みを浮かべた。
最初は泥の中で命乞いをしていた気弱な学者が、今や百三十人の悪党を動かす軍師(若頭)として、冷徹なハメ手を提案している。
「ハッ、さすがだシイナ。お前、本当に良い極道のセンスをしてるよ」
「えっ!? い、いや、私はただの元学者ですから……!」
褒められて急にいつもの調子に戻り、赤面して慌てるシイナだったが、その手元の算盤はすでに会談当日の完璧な人員配置を弾き出していた。
「よし、野郎どもを集めろ」
翔は立ち上がり、愛用のナガドスを手に取った。
「相手が泥棒の親玉なら、こっちは本物の裏社会の流儀って奴を教えてやろうじゃねえか。泥棒猫の首根っこ、丸ごとへし折りに行くぞ」
チートなき極道・稲川翔。
百三十人の私兵を影に従え、廃墟街の最高権力を引きずり下ろすための、命懸けの「大博打(交渉)」へと足を進めるのだった。




