9 新しい名前
「お、おはよう」
次の日、いつものように目を覚ましたわたしは、部屋の中で異彩を放つ物体におずおずと声をかけた。
声をかけた相手は、もちろん昨日うちにやって来た人工知能アイスポックス(仮)だ。「できるだけ話しかけてやって」と、父さんはいっていた。
「おはようございます、ミサキ」
ベッド脇にしつらえたラックにぶら下がったまま、青いインジケータを明滅させてアイスポックス(仮)が返事をした。相変わらず抑揚を欠いた声だ。
感情のない知性ってあり得るのかしら?少なくともいまのアイスポックス(仮)には、本物の知性はないように思える。感情がなく聞こえるのもそのせいなんじゃないだろうか。
犬や猫だけでなく、鳥にだって感情がある。高い知性を持った生物にはみんな感情があるのだ。タコなんて、腹を立てているときには他のタコに八つ当たりまでするらしい。
でも知性があれば感情があると考えてしまうのは、わたしたちがおおもとを同じくする生物だからかも知れない。人工知能はその進化の樹からは独立して、突如発生した存在だ。わたしたち生物の常識が通用するとは限らない。
だからこの先、アイスポックス(仮)に本物の知性が芽生えても、感情は発生しないかも。
ああ、だとしたら、それはそれでうらやましいかも知れない。感情がなければいつでも冷静に判断できて、気持ちにまかせて間違った決断を下したりしないんだろう。嫌な思いをしたり、傷付いたりすることもない。嫌なことから逃げ出して、そのせいで今度は自分自身が嫌になっているわたしのように感じることは決してないんだろう。
でも感情がなければ、楽しいとかうれしいとかも感じることができなくなる。空を見て美しいと思うことも、音楽を聴いて感動することもなくなってしまう。
そんなのわかってる。
わかってるけど、わかってるからってそんな自分の気持ちをどうにもできないこともわかってる。
ああ、朝はダメだな。とりわけ低血圧というわけではないけれど、朝のわたしは考えがすぐに悲観的な方向に行ってしまう。この寝癖でボサボサの髪のように、気持ちの方も朝からはっちゃけてくれればいいのに。
「名前、考えなくちゃ」
わたしはまだ眠い目をこすってアイスポックス(仮)を見た。ベッドの横にしつらえたラックにぶら下がったその姿は、骸骨標本のようで少し不気味だった。
「ねえ、あなたには名前の希望はないの?」
不思議なもので、スマホやスマートスピーカーに話しかけるのはなんでもないのに、目の前のアイスポックス(仮)に話しかけるのはなんだか落ち着かない感じがした。
まだ寝ぼけた頭でしばらく考えていると、唐突に理由に思いあたった。
スマホやスマートスピーカーに話しかけるとき、わたしたちはその向こうにいる誰かに話しかけている気でいる。それこそ、電話の相手に話しかけるように。
だけどアイスポックス(仮)は違う。実体としてそこにあるから、ましてや人に近い形をしているから、なんとなく意識してしまうんだ。
「希望はありません」とアイスポックス(仮)は答えた。
子どもの名前を付けるときって、こんな感じなんだろうか。
生まれたばかりの子どもに希望などあるわけもなく、むしろ希望を抱くのは親の方で、親のああなってほしい、こうなってほしいを表しているのが子どもの名前だ。
わたしはこの人工知能にどうなってほしいんだろう。いや、どうなってほしいもなにもない。わたしは昨日初めてこの人工知能の存在を知ったのだ。人間の親だって七ヶ月かそこらは考える時間があるはずだ。それにひきかえわたしに与えられた猶予は十二時間。ましてやその大半は寝て過ごしてしまった。込める希望もなにもあったもんじゃない。
「そっか、希望はないか」
ベッドの上でパジャマを脱いで、わたしはラックのアイスポックス(仮)に手を伸ばした。
一人でアイスポックスを装着するのは、そうむずかしくないことがすぐにわかった。一人で立つことができないとはいえ、アイスポックスは自力で関節を曲げることができる。それに、「もうちょっと膝曲げて」というような曖昧な指示にも、かなり上手に対応してくれるのだ。きっとこのあたりは、すでに研究所の方で教育済みなのだろう。
そしてありがたいことに、アイスポックス(仮)は驚くほどスリムにできていた。
一本一本のフレームはただの丸い棒ではなく腕や足の丸みに合わせた薄い板状で、素肌に着けて上から服を着てしまえば目立たない。背中のバックパックが少し膨らんで見えるけど、それだってフード付きの服を着てしまえばおかしく見えることはない。
わたしはベッドのふちから降ろした足を、そっと床に触れさせてみた。こんなふうに足の裏で床を感じるのは久しぶりだった。
両手に力をこめておしりを浮かし、ゆっくりと上体を前に倒して徐々に体重を足に預けていく。アイスポックス(仮)に「立たせて」といえば造作もなく立てるんだろうけど、いちいちそれじゃ面倒くさい。それに父さんの話では、人間の動きに追従して適切な動きをしてくれるはず。そして学習が進めば、先を読んだ動きもできるようになるはずだった。
この辺が、ただのパワードスーツとは違うところだ。普通のパワードスーツはあくまでも人間の動きに応じて作動する。でもアイスポックス(仮)は学習さえ進めば、人間と完全に協調して動くようになる。そしてその協調を通じてさらに学習し、人工知能の完成形へと近付いていく。
アイスポックス(仮)はわずかなモーター音をさせてわたしを立ち上がらせた。人工知能が、「この人は立とうとしている」と正しく判断したのだ。
わたしはそのまま不器用に机に向かって歩いた。アイスポックス(仮)の動きに不安はないけど、それでもやっぱり少し両腕を広げて、バランスを取るような格好をしてしまう。まるで平均台の上を歩いているようだ。
アイスポックス(仮)の歩みはゆっくりで、一歩踏み出すごとに深めにひざを曲げ、しっかりとバランスを確認してから次の一歩を踏み出す。
小学生のときに笑い飛ばした昔の二足歩行ロボットに、心の中で謝った。歩くのに慣れていなければ、誰だってこうなるよ。
たぶんこの感覚にいちばん近いのは、補助輪が取れたばかりの自転車に乗る子どもだと思う。乗れるには乗れる、前に進むには進める。だけどそれには慎重を要する。
わたしのいまの歩きはまさにこれだった。
そしてその不慣れな足取りで机までたどり着き、わたしは椅子に腰かけた。さあ、アイスポックス(仮)の名前を考えないと。
わたしは昨日父さんに教えてもらったアイスポックス(仮)の現時点での正式名称——AI supporting powered exoskeletonをノートに書き出した。
うーん、見れば見るほど父さんが名付けたアイスポックスの文字が目についてしまう。
並べかえて、powered exoskeleton supported by AIからPESAIとか。ダメだ、響きが悪過ぎる。話しかけるたびに「ねえ、ペサイ」なんていうのはカッコ悪過ぎだ。
いっそのことexoskeletonなんていういかめしいのはやめて、powered suitというのはどうだろう?AI supporting powered suit、略してAISPS。もう、わけがわからないし、なにより呼びづらい。急いでるときなんて絶対口がまわらない。
どうしたらいいんだろう。わたしはペットを飼ったこともないから、なにかに名前を付けるなんて経験したことがない。
いっそのこと、単にAIとか?でもなんだかそれは、誰か人を呼ぶときに「人間」と呼んでるようできまりが悪い。
「ねえ、なにかアイデアはないの?」
困り果てたわたしは本人に、というか本AIに聞いた。
「なんのアイデアでしょうか?」
あなたに付ける名前のアイデアに決まってるでしょうが。この辺、AIはまだ前後の会話から類推することができないようだ。だとしたらわたしは今後、いちいち説明を加えながら会話をしなくちゃならないんだろうか。それはとても面倒くさい。
「名前よ、あなたの名前。AIにふさわしい名前はなにかないかしら」
「AIの名前として有名なものとしては、ワトソンやHAL9000があります」
「それは、すごいAIなの?」
「ワトソンはIBMが開発した自然言語を理解し、人間の意思決定を支援するコグニティブ・コンピューティング・システムです」
「あ、いいじゃない、それ。あなたのご先祖様みたいなものでしょ?」
「直接の関係はありません。アニマテックはIBMとなんの関係もありません」
それはまあそうかも知れないけど、ちょっとくらい関係を認めてくれれば「ワトソン・ジュニア」とか「リトル・ワトソン」とか、そういう名前を付けられたのに。
「じゃあ、HAL9000っていうのは?」
「映画『2001年宇宙の旅』に出てくる人工知能です。宇宙船ディスカバリー号を統轄し、人類初の有人木星探査、ひいては地球外知的生命体の調査を目的としていました」
こっちの方がいいかも。人類と協力して科学調査をするんでしょう?人類とAIの協力を象徴しているみたいじゃない。
「HAL9000がいいかも。ちょっと進化してHAL10000とか」
本当はHAL9001とかでもいいかも知れないけど、せっかくだから一桁増やしてあげることにした。
「で、その有人木星探査と宇宙人の調査はどうなったの?」
「HAL9000は宇宙船ディスカバリー号の乗組員全員の殺害を試み、失敗して機能停止させられました。その後、宇宙船ディスカバリー号の船長デイヴィッド・ボーマンは……」
「もういいストップ、ストップ」
父さんの作ってる人工知能に、そんな物騒な名前つけられない。
この実直さというか、融通の利かなさはスマホのAIと変わらない。本当にこんなので人間と一緒に暮らせる人工知能になれるんだろうか。確かに昨日は、父さんの指示を的確に理解していたけど。
でもコンピュータそのものだって、誕生当時からは信じられないくらい進歩したはずだ。やっぱり学校の授業で習ったけど、最初のコンピュータは大きな部屋がいっぱいになるくらいの大きさがあったらしい。しかもそれでできることは簡単な計算くらいだったとか。
それがいまや、曲がりなりにも人の言葉を聞き取ったり、将棋や囲碁で人間を打ち負かしたり、銀河系の地図を作ったり、数えきれないくらいすごいことができるようになったんだから、この子もやがてはすごい人工知能になっていくのかも知れない。まるで醜いアヒルの子みたいに……。
それだ!そう思ったときにピンときた。
この子はまだ未熟だけど、いつかはきっとみんなが驚くような人工知能になる。いや、なってほしい。父さんが作ってるんだし。
じゃあ、アヒル?いや、それはちょっと……。英語でダックは?それもあんまり賢そうに思えないなあ。
「ねえ、『醜いアヒルの子』の作者って誰だっけ?」
これくらいの質問なら、スマホのAIでもすんなり答えられるだろう。この子なら楽勝のはずだ。
「『醜いアヒルの子』の作者は、アンデルセンです」
「アンデルセンのフルネームは?」
「『醜いアヒルの子』の作者、アンデルセンのフルネームはハンス・クリスチャン・アンデルセンです」
ちょっとまわりくどいけど、うん、まずまず適切に答えられてる。
「よし、ハンスにしよう」
わたしは胸の前で手を打ち合わせた。
「あなたの名前はハンス。今日からあなたはハンスよ」
「わたしの名前をアイスポックスからハンスに変更しますか?」
そうだっていってるじゃない、というのはぐっとこらえた。父さんから名前変更の許可はもらってる。こういうのは権限というらしい。
「うん、名前をアイスポックスからハンスに変更」
「わかりました。わたしの名前をアイスポックスからハンスに変更します」
なんだか、変な感じ。「わたしの名前を変更します」って日常生活ではあり得ないセリフだ。
「ええと、それじゃハンス……」
なにをしよう?名前が決まったはいいけど、これといってすることがない。
なにしろわたしは、昨日まで時計の針を見つめるのを生業にしていた女だ。
「とりあえず、下に行こうか」
わたしは机に手を突いて、身体を持ち上げるようにした。その動きにハンスは滑らかに追従してわたしを二本足で立たせる。
ところが実際に歩き出すと、立ち上がるときのスムーズさとは対照的にハンスの動きはぎこちない。
これはあまり人に見られたくないなあ。とはいえ、家から出ないわたしのこの姿を見るのは父さんぐらいで、誰かに見られる心配はいらないんだけど。
階段を下りるのは、歩くのとはまた別の難関だった。
昨日の夜、初めてハンスを装着して、階段を上がるのはやってみた。歩くのはもちろん、階段を上がるのにも慣れていないハンスは、慎重な上にも慎重を重ねてわたしの身体を二階に運んだ。
そして今度は、その階段を下りようというわけだ。
人間の筋肉には速筋と遅筋の二種類があって、速筋は瞬発力を、遅筋は持久力を受け持っている。階段の上り下り、特に下りは速筋を多く使うけど、その速筋は疲れやすく持久力に欠ける。山歩きで下りの方が大変だといわれるのはこれが理由だ。
と、わたしの足のリハビリの先生がいっていた。
だからいまわたしがやっている階段の下りは本来なら上りよりもたいへんなはずなんだけど、ハンスには関係ないようだった。
そもそも筋肉に種類のないハンスには上りも下りもなく、階段を下りるのは上るのと同様にぎこちなかった。
片方の足をステップに降ろしてから、もう片方の足を次のステップに降ろすまでのあいだ、わたしはかなりの時間を片足で立っていた。普通だったら、たちどころに膝がぷるぷると震えだして、翌日には筋肉痛になるような動きだ。
わたしの下半身を支える力はすべてハンスが生み出しているから、わたしが筋肉痛になる心配はないんだけど。それでもやっぱりちょっと心配で、わたしの手はいつでも手すりをつかめるように、中途半端に宙に浮いていた。
一歩一歩確かめるように足を運んで、一階に降りたところでわたしは大きく息を吐き出した。無意識のうちに息を止めてしまっていたらしい。
そうしてダイニングキッチンに入ったところで、父さんと出くわした。
「朝ごはん、作るね」
わたしは手早く朝食を準備した。といっても、食パンを焼き、バターとジャムを用意し、目玉焼きを焼くだけなんだけど。
そのとき、ふと気付いた。
ものが全部低いところにあって、取り出しにくい。卵も、バターも、ジャムも、少し腰を折らないと取り出しにくかった。
こんなに目線が違うんだ。
あらためて見まわすと、家の中のいろいろなものが車椅子に乗ったわたしに合わせた高さにあった。
こうやって立っていると、すべてのものが少し低い。高さにして三十センチほど。そうか、これがわたしと世間のズレの大きさか。三十センチなんて、たいした大きさじゃない。たぶんそうだろう。だけどそのズレは厳然として存在し、ふとしたときにわたしと世間を隔ててしまう。
きっとリナとのあいだにも、そんなものがあったのかも知れない。わたしが気付かなかった、リナとのズレ。リナたちとのズレ。気にしなければ気にならないのに、気になってしまうとそこにばかり気がいってしまうもの。
顔にできたシミみたいなものかな。気付かなかったときには毎日目にしていたってどうってことはなかったのに、気になってしまったら最後、鏡を見るたびに、写真を撮るたびに、窓ガラスに映る半透明の自分の顔にすら、そのシミを探してしまう。
「どうかした?」
父さんが後ろから声をかける。
きっと父さんは、わたしがハンスとの連携に戸惑っていると思ったんだろう。
「ううん」
そういって振り向くと、テーブルまでの距離がやけに遠く感じた。
わたしと父さんの家は、わたしが車椅子で移動するのに不自由のないようにスペースが広くとってある。キッチンもおしゃれなアイランド型ではなく外に向かって流しやコンロがあるタイプだ。その方がわたしが動きやすいから。
こうして二本足で行動してみると、食材を取り出す、コンロの火をつける、そんな動作のひとつひとつが新鮮に感じられた。
「少しは慣れた?」
トーストをかじりながら、父さんがいった。
「うん、ちょっと慣れてきた」
嘘だ。意識して身体を向ければその方向に進むことができるとはいえ、これにはけっこう高い意識が必要で、わたしはいま変な意味で意識高い系女子だ。
それでもせっかく父さんがわたしのために持って来てくれたハンスだ。否定的なことをいって父さんをガッカリさせたくない。
「あのね、この子の名前だけど、ハンスにしてみたの」
わたしは今朝のやりとりを父さんに教えた。
「いいね、ハンスか。なんとなく頭がよさそうな感じがするし」
そういうと父さんはタブレットを取り出して、なにやら打ち込み始めた。
「ところで、ハンスって名前はどこから来たの?」
「そ、それは、ええと、ヒューマン・アシスタント・ネットワーク・システム——Human Assistant Network System——から……。人間のアシスタントをするわけだし……」
醜いアヒルの子からとった、というのが少し恥ずかしかったわたしは、とっさに答えた。かなりたどたどしく。
「そうか、それはいい」
父さんはおもしろそうにいった。「ネットワークはほら、ネットにもつながるわけだし……」という余計な説明はまるで聞いていないようで、父さんはタブレットをポンと叩いた。
「よし、じゃあもう一段ハンスの活動レベルを上げてみよう」
「なにをするの?」
「ハンスのコミュニケートレベルをもう少し上げてみる。これまではフルパッシブだったんだけど、これからはセミアクティブモードにしてみよう」
「つまり?」
「つまり、ハンスはいまからおしゃべりになる」
父さんの指がタブレットの上でひらひらと踊った。そして最後にいくつかのキーを叩く動作をすると、父さんはいった。
「ハンス、これからはたくさんおしゃべりできるよ」
「ありがとうございます。ミサキとお話をするのが楽しみでした」
父さんに応えて、ハンスがいった。その声は心なしか、楽しそうに聞こえた。




