10 高校生
ハンスがおしゃべり好きであることは、父さんを送り出してすぐにわかった。いや、送り出す瞬間から、本当は気付いてしかるべきだった。
なにしろハンスは、わたしが父さんを送り出すとき、一緒になって「行ってらっしゃい」といったのだ。
そのときは単に、「ああ、場面に応じた挨拶ができるんだ」くらいにしか思わなかった。ところが、ダイニングキッチンに戻って洗い物を片付けようとすると、ハンスのおしゃべりが始まった。
「ミサキ、今日の朝食はいつもと同じものですか?」
「うーん、だいたい同じかな」
朝食のときに父さんがしていた操作は、ハンスに自発的な会話を許可するものだった。つまり、ハンスから話しかけることを許すということだ。
父さんは昨日の晩にいっていた。ハンスには好奇心がある、と。好奇心があって、自分からおしゃべりしてもいいということになると、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「野菜が不足しているように思います」
「そうかな?」
「はい、今日の朝食はバターとマーマレードを塗ったトースト一枚、目玉焼きひとつ、オレンジジュースでした。野菜はありません」
ハンスはわたしと父さんが朝食になにを食べたか、カメラでしっかり見ていた。そしてもちろん、その記憶は正確だった。
「でも、昼とか夜に食べるし」
わたしだって野菜が嫌いというわけじゃない。
「厚生労働省によると、成人が一日に必要とする野菜の摂取量は三百五十グラムです」
「それって具体的にはどれくらい?」
「標準的なキャベツ一玉の三分の一です」
「そんなに?」
キャベツ三分の一玉って、千切りにしたら山盛りになるんじゃないだろうか。それもかなり標高の高い山に。
「はい。ですが、すべてをキャベツで摂る必要はありません」
あたりまえですが。
「それに、すべてをサラダで摂る必要もありません。野菜炒めや煮物、お味噌汁の具として摂ることも可能です」
わたしは吹き出してしまった。だって人工知能の抑揚のない声で、「お味噌汁」って。
「どうしましたか?」
「ううん、なんでもない。そっか、もうちょっと野菜を摂った方がいいね。でも、朝は時間がなくて」
「ミサキはこのあとの予定がありますか?」
「ううん、なにもないよ」
「それでは、時間はありますね」
痛いところを突かれた。確かに時間ならあまるほどある。
「そ、そうだね。でも、お父さんも一緒に食べるから」
「それでは、もう少し早く起きてみてはどうでしょう」
まさしく正論。
だけど人間、正論だけでは動いていない。もし人間が正論だけで動いているのなら、世の中には犯罪も戦争もないはずだ。
などという大仰なことを持ち出すまでもなく、わたしは単に早起きが苦手なのだった。学校に行っているときもいつだってギリギリだったし、今日もまだ髪に寝癖がついている。
「努力はしてみるよ」
洗い物を終えて、わたしは洗面所に向かった。昨日、洗濯をし損ねたからだ。
それはそうだろう。父親がいきなり研究所から人工知能を連れ帰って来て、しかもそれはパワードスーツを兼ねていて、長年車椅子生活を送っていたわたしを二本足で立たせ、歩かせたのだ。洗濯などという日常は、頭から消え去ってしまっていた。
それでも、どんなに驚くようなことがあっても、日常はそこにあり続ける。洗濯物が消えてなくなることはない。
たとえ何度かとばすことはあっても、ずっとご飯を食べずにいることはできないし、睡眠だって取らなきゃいけない。目の前に最先端のコンピュータ・サイエンスと機械工学の奇跡があっても、いや、それを身に着けていても、洗濯物はたまっていくのだ。
洗濯はわたしの担当という決まりがあったわけではないけど、なんとなくわたしが洗濯機をまわすことが多かった。幸い、ドラム式の洗濯機なら車椅子に乗ったわたしでも困らなかった。
だけどこうして二本足で立ってみると、ドラム式の洗濯機って意外と背が低い。洗濯物を出し入れするには、ちょっとしゃがまなくちゃならない。洗濯のたびにこんな屈伸運動するのって、けっこうたいへんじゃない?わたしにはハンスのサポートがあるから大丈夫だけど。
「ミサキ」
洗濯物を放り込んでいると、ハンスが話し始めた。
「なあに?」
「これは、洗濯ですね」
「そうだよ」
朝食についてはあんなに細かく、栄養士かというくらい指摘をしてきたのに、洗濯については知らないのかな。
「汚れた衣類などを洗って清潔にすることですね?」
「うん」
そんなふうに考えながら洗濯したことはなかったけど、確かにそれが洗濯だ。
「洗濯を見るの、初めて?」
「学習過程において、洗濯の映像を見たことはあります。ですが、実際に洗濯を経験するのは初めてです」
なるほど、そういうことか。
ハンスはディープラーニングだかなんだかで、ネットワークに接続していろんなものを見聞きしてはいるんだろう。だけど実際の経験が少ないんだ。父さんはそれをハンスに体験させたいといっていた。
研究所内でも、誰かがものを食べることはあるだろう。食事とか、お菓子とか。実体験とまではいわないまでも、ハンスはきっとそれを自分のカメラで見ているはずだ。だからわたしと父さんのダイニングでの様子を見て、それが朝食であることを理解できた。そしてそこに野菜が足りないことを、ハンスの膨大なデータベースの中の知識と結び付けて指摘したのだろう。だけど洗濯は、知識として知ってはいるけど実際に体験するのは初めてなんだ。人間でいえば、「本で読んだことはあるけれど」ってやつだ。
そうか、ハンスは膨大な知識を抱えた子どもなんだ。
わたしは父さんがやろうとしていることを理解できた気がした。それは、頭でっかちなハンスに経験を積ませ、知識と体験を結び付けさせること。本ばかり読んでいる子どもを図書館から連れ出して、外で走ったり転んだりしながら虫を追いかけたり、海で泳いだり、山に登ったりさせたいんだ。
そう思うと、なんだか急にハンスが妹か弟みたいに感じられた。
「ミサキ」
液体洗剤を投入しているわたしに、ハンスがふたたび話しかけた。
なあに?知りたいことがあったら、なんでもお姉さんにいってごらん。
「洗剤を入れ過ぎです」
「え?」
「ミサキが洗濯機に入れた衣類の質量は約二・四キログラムでした。これに対して投入した液体洗剤の量は約五十ミリリットル。液体洗剤の濃度にもよりますが、あきらかに多過ぎます」
ああ、そう。この子は経験がないだけで、知識は唸るほど持ってるのよね。しかもアクチュエータにかかる抵抗の増加から、洗濯物の重さを正確に知ることができる。さすがに液体洗剤の重さまではわからないだろうけど、それはわたしの首元についたレンズで計量キャップに入れた量を見ているんだろう。
できのいい妹を持つ姉の気持ちが痛いほどわかった気がした。
「そうね、今日はちょっと入れ過ぎちゃったかな」
慌てて洗剤投入口を閉めるわたしに、ハンスはいった。
「ミサキ」
「なに?」
「柔軟剤は入れなくていいのですか?」
入れる、入れるわよ。入れさせていただきます。
ほんと、いつもはちゃんと入れてるの。洗剤の量を計ってないのもいつものことだけど、柔軟剤を入れるのもいつものことなの。
「そうだね……」
もう一度洗剤投入口を開け、今度はしっかり計量して柔軟剤を流し込んだ。姉としては、まったく立場がない。姉歴半日、失態続きは肩身が狭い。
洗濯機のスイッチを入れたわたしはとぼとぼとリビングに向かった。
気持ちだけは。
気落ちしたわたしは本当ならさっさとリビングのソファに倒れ込んでしまいたいところだけれど、この妹だか弟だかは姉にそれすら許してくれない。
わたしは昨日の夜と同じように、冗談のようなぎこちない足取りで廊下を進んだ。ハンスにはまったくそんなつもりがないのはわかっているけど、それでもなんだかはずかしめを受けているような気がした。
ようやくたどり着いたリビングで、わたしはどさりとソファに身体を沈めた。
沈めたかった。
ところがハンスは、わたしがソファに向かって身体を倒そうとすると一歩踏み出してバランスを取ってしまう。なんだか間抜けなステップで踊っているようなわたしは、なおさらはずかしめを受けている気分だった。
「ハンス、ソファにドサッといきたいの」
「ドサッといくというのは、なにかを放り出すということですか?」
ああ、ここまで適当な指示はまだ理解できないのか。
「そうじゃなくて、わたし自身がソファに倒れ込みたいの」
「倒れ込むのは危険な行為ではないですか?」
「そんなことない……」
そうか、わたしたちはソファやベッドに本当の意味で倒れ込むことはしていないんだ。言葉の上では「倒れ込む」といっていても、実際にはぶつからないようにしたり、受け身を取ったりしてる。それも無意識に。
これもわたしたちがその感覚を身に着けているからなのかな。父さんはハンスにそういう感覚を学ばせたいのかな。
「ええとね、勢いよくソファに座りたいの」
「わかりました」
わたしの身体はくるりと向きを変えると、ストンとソファにおしりを落とした。
それはわたしにとっては長いあいだ忘れていた経験だった。
「こんなの、久しぶりだな……」
ハンスに話しかけることに慣れてきていたわたしは、思わず声に出していた。
小さい頃のわたしは、みんなと同じように二本の足で立っていた。歩いたり、走ったり、飛んだり、跳ねたり。
それが突然立てなくなった。歩けなくなった。
病室のベッドの上でどうやっても動かないわたしの足を見て、心配していた父さんの顔はいまでも覚えてる。
「ミサキ」
ハンスの声で、わたしは我に返った。
「どうしましたか?」
「なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
「疲れたのでしたら、ベッドで横になることをおすすめします。甘いものを食べることも有効です」
弟か妹かと思ったらおばあちゃんですか、あなたは。さっきまで食事のバランスが悪いのなんのと小言をいっていたくせに、ちょっと疲れたといったら甘やかす。
「大丈夫、そこまでじゃないから」
わたしはソファの上で上体を起こした。
「ミサキ」
「なに?」
「ミサキは高校生ですか?」
「そうだよ」
父さん、基本情報は入れておいてほしい。きっと父さんのことだから、「僕の娘のミサキにくっついて、いろいろ学ぶように」くらいの指示しか与えてないんじゃないだろうか。足が不自由だってことはいってあるかも知れないけど。
そこまで考えて、わたしはふと思った。じゃあ、どうしてハンスはわたしが高校生だってわかったんだろう?
「ねえ、ハンス」
「はい」
「わたしが高校生だって、お父さんに聞いた?」
「いいえ」
「じゃあ、どうしてわたしが高校生だと思ったの?」
「ミサキの机の上に、『高校』という言葉の入った教科書がありました」
なるほど、画像認識だ。机に置いてある本をきちんと教科書と認識しているあたり、さすが人工知能。
わたしはちょっと意地悪をしてみた。
「でも、それだけならわたしが高校の先生だって可能性もあるんじゃない?」
わたしの年齢を知っていればそこからわかりそうなものだけど、ハンスは教科書の存在を根拠にしていた。たぶん年齢は知らないのだろう。
「参考書や問題集もありましたが、いずれも高校生向けです。逆に指導書や問題作成用資料等がありませんでした。そのことから、ミサキを高校生と推測しました」
人間だったらあたりまえにわかることを、ハンスはデータを元にきちんと考えなくちゃならない。でも、これってすごいことだ。
普通の人工知能なら、机に高校の教科書があることはただそれだけの事実でしかない。
もちろんその人工知能に、「高校の教科書を持っている人は高校生だ」と教えれば、そう判断するだろう。そして正しく間違える。
高校の教科書を持っている人なら、それが赤ちゃんでもお年寄りでも、誰でも「高校生だ」と判断するだろう。それならばと年齢条件を与えると、今度はその年齢を判断する根拠が必要になり、正しい年齢がわからないと判断できなくなってしまう。
だけどハンスは違う。高校の教科書を使っている形跡があり、先生が使いそうな本がないことから、わたしが高校生だと適切に推測している。
人工知能にとっては、たとえば温度計が示す数値はただの数値でしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただの事実でしかない。
でもたぶんハンスなら、その意味するところがわかる。そして気温がもし二十度しかなくても、人が暑そうにしていれば、「この人は暑いんだ」と判断するんだろう。
つまり、ハンスは状況から判断することができるし、おそらくはわたしたちが常識と呼ぶものに近いものを持っているんだと思う。
父さんたちがハンスにそれを教えるのにどれだけの労力をかけたか、考えるとめまいがするほどだった。
ディープラーニングは決して万能じゃない。万能じゃないどころか、実はおそろしく手間がかかる。人工知能に大量のデータを与えれば、勝手に学習してくれるものではないのだ。
たとえば人間が猫の写真を見せられて「猫だ」と答えるとき、わたしたちは写真という入力を適切に処理し、「猫だ」と出力している。
多くの人工知能に使われるニューラルネットワークにはデータの入力と出力のあいだにそれを処理をする層があって、その処理層を何層にも増やして学習するのがディープラーニングだ。
処理層が深くなればなるほど入力に対する出力の精度は上がるけど、そのぶん処理に時間がかかる。それに処理層を深くすることで、かえって人工知能が混乱してしまうこともある。猫の写真を見たときに、猫と答えればいいのか、写真と答えればいいのか、それともインクの色を答えればいいのか、考え過ぎてしまうのだ。
だからその設計も調整も、実はとんでもなく手間がかかる。そしてその苦労が結実したのが、ハンスなのだった。
「それから、ハンガーにたくさん皺のついた制服がかかっていました」
そういうとこ、気付かなくていいから。うん、そういうところにまで気付くのはすごいと思うけど、いいから。
おそらくハンスには悪意も、含むところもないんだろう。散らかった部屋を見て、「きれいなお部屋だこと」なんて嫌味をいうのとは違って、制服の皺はわたしがそれを着ていたことを、つまりは高校生であることを推測するための根拠に過ぎない。
でもあらためていわれるとちょっとね。しばらく着ていないとはいえ、アイロンくらいはかけておけばよかったな。
「ミサキ」
「なあに」
「高校生のミサキは、高校に行かないのですか?」
本当に悪意も、含むところもなくいう。
まるで小さい子がわたしの車椅子を見て、「お姉ちゃんは歩けないの?」と聞いてくるときと同じだ。
彼らに悪意はなく、わたしを傷付けるつもりはない。傷付けるつもり無く投げかけられた言葉に、傷付く必要なんてない。そんな必要はないって、いつもわかってはいるんだけど……。
「うん、行かないよ」
わたしは努めて明るく答えた。人工知能相手にそんな必要はないのに。
「高校生は高校に行くのではないですか?」
「そうだけど……、わたしは行かないの」
気まずい沈黙が降りた、と思っているのはわたしだけなんだろう。その証拠に、ハンスはなんでもない口調でこう切り出してきた。
「では、他の場所に行きませんか?」




