11 プルモナリア
ハンスの提案を聞いてわたしが思ったのは、「どこに?」ではなくて、「どうして?」だった。どうしてハンスは、わたしにどこかに行こうと提案するんだろう?
「ミサキ、どこか別の場所に行きませんか?」
高校にも行かないわたしに、ハンスはどこに行けというのだろう?
そう考えて、思いあたった。ハンスは本当にどこかに行こうと提案しているわけではないんだ。
ハンスは好奇心を持つように、少なくともそう行動するようにプログラムされている。だからわたしが高校に行っていないことも関係なく、ただ単に自分の経験を増やすために行動しているんだ。
そして経験を増やすためには、ハンスを装着している人間がさまざまな活動をするしかない。ハンスはそう判断したに過ぎない。そうだ、ハンスには悪意も、わたしを励まそうという意思もないんだった。
父さんのためにも、少しがんばらないといけないかな。ハンスに少しでも経験を積ませないと……。
「じゃあ、ちょっと外に出ようか」
高校は無理にしても、家のまわりくらいなら。
「はい」
「じゃあ、行ってみようか」
わたしは玄関に向かった。ハンスを着けたまま履けるように、スニーカーの紐をうんと緩める。ハンガーからキャップを取って頭にかぶる。
車椅子に乗るわたしに合わせて、うちはいまどきめずらしい引き戸だ。その扉を引き開けて、一歩踏み出す。
緑の匂いをはらんだ風が、わたしの頬を撫でた。
その風は、わたしがそれまで感じたことのない風、感じることができないはずの風だった。地上百六十センチメートルの風は、昨日までのわたしには夜空の星と同じく、手の届かない存在だった。
その風を、わたしはいま生まれて初めて感じている。
ハンスにとっても、それは初めての経験のはずだった。もちろん、研究室で誰かの身体を借りて歩きまわったことは何度となくあるだろう。そうでなければ、父さんがこうして持ち出して自分の娘に使わせるなんてこと、するはずがない。
それでも研究室の外で、本当に普通の世界を歩くのは初めての経験のはずだった。
これは、わたしとハンス二人の冒険なんだ。
靴の底を通じて、地面を感じられた。ハンスの力を借りていても、体重がゼロになるわけではなく、自分の体重とハンスの重さぶんの圧力が足の裏にかかっていた。
「行くよ」
右足が地面を離れる。靴が弧を描く。敷居をまたぐ。
ハンスのわずかなモーター音を遮るように、靴底が接地する音が聞こえた。
わたしは家の外に立っている。
それだけで、すべてが変わった気がした。
昨日の夜、ハンスの力で初めて立ち上がったときとは違う感動が、わたしの胸にこみ上げた。
家は、わたしの鎧だ。なにがあっても、そこに帰りさえすればすべてのことからわたしを守ってくれる。だからリナからのイジメに遭ってどうしていいかわからなくなったとき、わたしは家の中に、鎧の中に身を潜めることに決めた。
立って眺める庭の景色はいつもとはまるで違っていた。
父さんが好きで植えているユキヤナギは、もう花を散らしてしまっていた。
いつもなら緑の壁に見えているユキヤナギを上から見下ろしているのは、不思議な気分だった。
そのユキヤナギに隠れるようにして、白とピンクのかわいらしい花が咲いていた。まるでにっこりと微笑むマンガのキャラクターのようだ。
「ハンス、あの花の名前わかる?」
その花は庭のあらゆる方向に向けて、笑顔を放っていた。
「トレニアです」
「ふうん」
車椅子に乗っていると視点が低いからたくさんの花が見つかりやすいと誤解されるけど、実際は逆だ。視点が低いぶん障害物に遮られて、特に背の低い花は見えないことが多い。
「この花、なんだか一年中咲いてる気がする」
「トレニアは四月から十月ごろまで花を咲かせます。暑さに強く生育が旺盛でさまざまな土地で育ちますが、乾燥を嫌います」
「へええ」
ハンスは花に詳しかった。それもそのはず、バックパックに収められたハンスの頭脳には、さまざまな知識が詰まっているのだ。
「じゃあ、あっちの花は?」
わたしは庭の隅にある、小さな紫色の花を指さした。
考えてみれば、これもすごいことだ。ハンスはどの花のことをいっているのか、座標で指示しなくても理解する。
犬は指さしたものを理解するというけど、猫にはこれができないらしい。猫はなにかを指さすと、その指の先をクンクン嗅いでしまう。これはこれでかわいいんだけど。
「プルモナリアです」
「プル……なんとかっていうのは、どんな花なの?」
「学名、プルモナリア・オフィシナリス。英名、ラングワート。寒さに強く、ピンクや白の花色が次第に青く変わっていくのが魅力とされています」
確かによく見ると紫色の花に、いくつかピンクや白の花も混じっていた。
「プルモナリアっていうのは、どういう意味?」
「肺です」
「肺?」
わたしは思わず自分の胸を押さえた。
「肺臓です」
「ああ、そう……」
なんかちょっと、こんなかわいい花に臓器の名前を付ける昔の人のセンスがわからない。ハンスが持っている膨大な知識も、あればいいってものじゃない気がしてきた。
視点を変えれば、とよく聞く。迷ったとき、困ったとき、行き詰まったとき、視点を変えてみるといいって。
いまのわたしは、本当に、物理的に、視点が変わっている。庭にこんな世界が広がっているとは思わなかった。視点がわずか三十センチ上がっただけでこの違いだ。
ましてやわたしにはハンスがいる。まだまだぎこちないとはいえ、人間と会話ができ、膨大な知識を操れるパートナーがいるのだ。家という鎧で身を守っていたときには、決して得られなかった視点の変化がある。
「もう少し、歩いてみませんか」
しばらく庭を散策したあと、ハンスは促した。鎧を脱いで、もっと遠くに行ってみようと。重い鎧を着たままではたどり着けない場所に、行ってみようと。
「うん」
自分でもビックリするくらい、弾んだ声が出た。
家の前の道路に出て、上り方向を選んだ。せっかく鎧を脱いだのなら、上に向かう方がいい。
道は曲がりくねっているとはいえ舗装もされていて、脇を走る白いガードレールがいまはシャツの下に隠れているハンスのように見え、それははるか彼方にまでわたしを連れて行ってくれるようだった。
時おり車が追い抜いていくその横で、わたしは一歩一歩確かめるように歩いていた。それでも、ハンスとわたしの足取りは少しずつ確かなものになっていった。
まだ六月に入ったばかりだというのに日差しはやけに強くて、キャップをかぶった頭から汗がしたたり落ちた。
三十分ほど歩くと、驚くほど遠くまで来ていた。速さはそれほどではないとはいえ、ハンスは疲れることを知らない。つまり、上り坂をまったくペースも落とさず休みもせず歩き通したのだ。相当な距離まで来られるのは道理だった。
たどり着いたそこは数台の車が停められるくらいのスペースになっていて、飲み物の自動販売機が一台置かれている。
だけど、それだけだ。
ビューポイントとも呼べないそこから見えるのはまわりの山と木々ばかり。遠くを見渡すには背後にあるもう一段高い山の上まで行かなければならない。
振り向いて仰ぎ見ると、青い空を緑の山が切り取っていた。
その山は近所の子どもたちからはザビエル山と呼ばれていた。昔、日本にやって来たフランシスコ・ザビエルが布教の旅の途中でこの山に登り、などといういわれはまったくなく、山頂付近にだけ木が生えていないのでそう呼ばれていたのだった。
あれはトンスラというキリスト教の聖職者の髪型で、という先生たちの説明もむなしく、いつの頃からか山頂にある神社までザビエル神社と呼ばれるようになっていた。
わたしはもちろん、そこに行ったことがない。
ザビエル神社には駐車場から続く山道を登っていかなければならなくて、それは山肌に細い丸太を埋め込んで作った階段状の坂だった。車椅子のわたしにとっては、そこは富士山やエベレストの山頂にも等しい場所だったのだ。
車椅子のわたしにとっては。
だけどいまは、ハンスと一緒だ。
車椅子のわたしには無理でも、ハンスと一緒のわたしになら行けるかも知れない。
わたしは額の汗をぬぐうと、山道へと足を踏み入れた。




