12 ザビエル神社
「山道、大丈夫?」とは、聞かなかった。
舗装道路とはいえ、駐車場までだってけっこうな坂道だったのだ。その間、ハンスの歩みに不安なところはまったくなかった。
それどころか、歩く距離が延びるにつれてハンスの足取りは速く、確かなものになってきているようだった。
「わたしは常に学習し、その結果を動きの制御にフィードバックしています」
山道を歩きながら、ハンスはわたしの疑問に答えた。
「道を歩きながら、わたしはミサキの動きを学習しました。それをフィードバックしているので、歩く距離が増えるほど動きはスムーズになります」
「へえ、そうなんだ」
「はい、明日になればもっと足を動かすことが上手になります。学習を続ければ、走ることも可能になります」
「走れるの?」
「はい。最初はあまり速くは走れませんし、転ぶこともあるかも知れません。しかし、走るようになることは可能です」
「どれくらい速く走れるようになるの?」
「ミサキの身体であれば、だいたい時速十キロメートルほど。五十メートルを二十秒で走るくらいです」
それはとても魅力的な見通しだった。
自動車や電車に乗っているときを除けば、わたしは時速十キロでなど走ったことがない。電動車椅子の最高速度は法律で時速六キロメートルと決められているからだ。
体育の授業に参加できないわたしはみんなの記録係をやることが多かった。だからだいたいみんなが五十メートルを九秒くらいで走ることを知っている。
五十メートルを二十秒は、おそらく学年最遅記録だろう。
それでも、わたしにとっては夢のような速度に違いない。
でもいまは、いつか達するそんな速度からはほど遠い遅さで、わたしは赤土が湿る山道を登っていった。山頂の神社に至るその道は、まるで緑のトンネルのようだった。分け入るにつれ、木々はなお鬱蒼と茂り、青空からなにかを隠しているかのように見えた。
そうだ、隠している。
少なくともこの道は、わたしから山頂を、山頂からの眺めを隠してきた。下の駐車場までなら、父さんの車で何度か来たことがある。だけどそこから上は、わたしには未知の領域だった。
「少し滑りますね」
ハンスが声をかけた。
「うん」
足の裏が滑っているのは、わたしにもわかる。だけどこれまでほとんど体重のかかったことのないスニーカーの靴底は新品同様だ。ちょっとやそっとで転ぶはずがない。
「足の裏が滑る感覚は新鮮です」
それはわたしも同じだった。小さな頃を除けば、わたしは足を滑らせたことがない。それは自分の足で歩くことのできる人間の特権だったからだ。
でもいま、わたしとハンス両方の体重を引き受けた靴底は、踏み出すたびにほんの少し滑っている。
「そうだね、わたしも新鮮」
わたしとハンスはいま、同じ体験を同じように新鮮な気持ちで受け止めている。
家や学校の中の階段とは違う、緑の木々の中の土の階段。広い場所にいるはずなのに、木々のおかげで閉じ込められているみたいに感じられる。
かぶったキャップの隙間から、汗が流れ落ちる。汗はそのままあごから落ち、地面に吸われて見えなくなった。
それにしても、こんなにきついとは。
足の動きはハンスが受け持ってくれているとはいえ、上半身のバランスを取るのはわたしの役目。さっきから腹筋と背筋はフル活動中だ。
腹筋と背筋はお腹と背中にある筋肉の総称だ。人間の上半身でいちばん大きい筋肉は肩のところにある三角筋だけど、胴体をぐるりと囲んでいる腹筋と背筋の総量にかなうわけもない。ダンサーが手っ取り早く身体を暖めるために腹筋運動をするらしいと、本で読んだことがある。
わたしはさっきからそれをフル活動させている。当然、運動量ははなはだしく大きく、息があがる、滝のように汗が流れる。
おまけに今日の気温だ。さらには森の中にいるおかげで、むせ返るように湿度が高い。
引き返そうか、とも思った。だけどそれをいうのははばかられるような気がした。
これまで、たくさんの人の力を借りてきた。父さんだけじゃない。車椅子を作った人、リハビリをしてくれた先生、建物の入り口にスロープを付けてくれた人。バリアフリーを促進するために、誰かがどこかで力を尽くしてくれていたはず。
ハンスの力を借りてすら山頂まで行けないのなら、わたしはきっともうどこにも行くことなんてできないだろう。
「少し休みますか?」
ハンスが挑発するようにいう。そう聞こえたのは、きっとわたしの心のせいだ。実際には相変わらず感情を欠いた声だったに違いない
一枚の肖像画が、微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見えることがある。それはこちらの気分次第だ。
「ううん、このまま行くよ」
休んでなんていられない。立ち止まったら、もう歩き出せない。そんな気がした。
道はからかうみたいに右に行ったり左に行ったり、平坦になったかと思えば急に勾配がきつくなったりした。
森はますます深くなり、木漏れ日すらわずかに足下に落ちるだけになった。道の横からは時おり細い枝が飛び出していて、何度か手を使って払いのけなければならなかった。
そうして、さっきまでの強がりを少し後悔し始めた頃、不意に森が途切れた。
あまりに突然で、あっけなくて、わたしはキツネにつままれた思いがした。それこそ深い海の底から浮かび上がって、水面に飛び出したようだった。
森の途切れたところには森と神域との境界を守っているかのように、古びた鳥居が立っていた。朱の剝げかけた鳥居をくぐると、そこから先は石の階段がまっすぐに延びていた。
ザビエルの頭頂部。
そんなことを思って、一人で笑ってしまった。
さっきまでの山道と違って、石の階段は一段一段の高さも均等だし、なにより滑らないから歩きやすい。だけど勾配はこれまでの比ではなく、最後の最後に追い討ちをかけるようだった。
果てしなく続く、それこそ天まで続くかと思われる階段をひたすら上り続けて十数分。わたしは最上段までやってきた。頂上にはほとんどスペースはなく、手水舎と数本の灯籠と拝殿が肩を寄せ合うように並んでいた。
あまり訪れる人もいないのか、石段の下の鳥居と同じく手入れが行き届いているとは言い難いザビエル神社は、あちこちが煤け、剝がれ、穴が空いていた。
そして、振り返ると。
なにものにも遮られていない景色が、眼下に広がっていた。
登山と呼べるようなものではない。決して高い山でもない。それでも、わたしにとっては二つとない光景だった。
ずっとずっと下の方、何キロも先に細く曲がりくねった川が見えた。川の両岸に広がる街が見え、それをつなぐ大きな橋が見えた。そしてその先には、遠く海が見えた。
「最高……」
わたしは額の汗をぬぐってつぶやいた。
ほんの二十四時間前には、これは存在しない景色だった。少なくとも、わたしの人生には存在するはずのない風景だった。
誰かに連れて来てもらうことはできただろう。背負って、カゴに入れて、なんならヘリコプターで。だけどそれは、いまわたしが見ている景色とは違うはずだ。ハンスの力を借りてはいても、わたしは自分の足でここまで登り、たっぷりかいた汗と心地よい疲労感とともにこの景色を眺めているのだ。
「これは、最高ですか?」
ハンスが聞いた。
「うん、わたしにはね、とってもきれい」
「グレートバリアリーフやグランドキャニオン、マッターホルンの方がきれいなのではないですか?」
「どうしてそういうこというかな?」
ハンスには、この景色がわたしにとってどんな意味を持つかがわからない。そしてわたしの言葉が質問ではないことも理解できない。だから馬鹿正直に、自分の発言の根拠を答えた。
「各観光地の写真がインターネット上にあります。数は少ないながらこの場所からの写真もインターネット上にあります。しかし、人々からの好意的な評価、美しいという評価は圧倒的に前者に偏っています。
そこから推測すると、この景色は最高という評価にあてはまらないのではないでしょうか」
「そうかも知れないけど、わたしにはこれが最高なの」
わたしはポケットからスマホを取り出して何枚か写真を撮った。それを父さんに送ろうと思ったけど、残念ながら圏外だった。いまどき携帯電話の電波が届かないなんて、ボロボロになった神社と相まって、まるで文明に見捨てられた場所のような気がした。
そうそう、少しでも父さんの役に立てればと思って家を出たんだ。もう少しがんばってハンスの学習に付き合ってみよう。
「人間がどんな景色を美しいと思うかは、多数決で決まるんじゃないの。もちろん、多くの人が美しいという景色は美しいんだと思う。でもそれが全員にあてはまるわけじゃないし、その人の経験とか、感じ方によって違ってくるの」
「多数決は重要な意思決定方法だと教わりました」
「景色のきれいさなんて、多数決で決めるものじゃないでしょ」
「インターネット上では、美しい景色の順位を決める投票が盛んに行われています」
「あれはね、洒落みたいなものなの。意識調査っていうか、みんなどう思う?みたいな。だから自分がきれいと思うものがきれいでいいのよ」
「参考までに、というやつですね」
「う、うん、そう」
突然人間くさいことをいう。
「それに、ここからは花火が見えるらしいの。街の方であがる花火なんだけど、上から見下ろすように見えるんだって。そういうのも、景色のきれいさにはプラスされるのよ」
「いま実際に見えていなくてもですか?」
「そうだよ」
いいながら、わたしは街の上にあがる花火を想像してみた。
ザビエル山に登ったこともないわたしは、当然その花火を見たこともない。だけど日が沈んで、遠い街明かりの上にきらめく花火は想像するだけできれいに思えた。
こんな会話が、ハンスが人間を理解する助けになっていればいいんだけど。
わたしはわたしが最高と思う景色をもうひと眺めして、緑の匂いのする空気を思い切り吸い込み、山頂をあとにした。




