6 お父さんの好きな人
どれくらい眠っていたんだろう。
気が付くと外はまっ暗になっていて、遠くに街の灯りが見えていた。ああ、こんなところにも距離を感じる。わたしたちの家は街外れの高台にあって、などというと少しおしゃれな感じがするけれど、要するに田舎の山道を登ったところにあるのだ。
だから小さい頃、みんながショッピングモールで楽しくお買い物をしているとき、わたしは森の中で激しく虫取りをしていたし、みんながカフェで呪文のような名前の飲み物を飲んでいるとき、わたしは川で溺れかけて死ぬほど水を飲んでいた。
中学生になり、高校生になって、少しずつ街の子との距離が縮まって、ようやく呪文のような飲み物を恥ずかしげもなく注文できるようになってきたところで、このありさまだ。いまのわたしには、街の灯りが星の明かりよりも遠く思えた。
ベッドに横になって天井を仰いだままため息をひとつつくと、目の隅で小さな明かりが灯っているのが見えた。ベッドに倒れ込むときにポケットから飛び出したスマホの小さなランプが、申し訳なさそうに点滅を繰り返していた。
身体をひねってスマホを取り上げると、センサーがその動きを検知して画面が灯った。環境光に合わせていちばん弱い光になっているはずだけど、たっぷり暗がりで過ごしてしまったわたしの目には痛いほどまぶしい光だった。
目を細めて見ると、ロックされた画面には「お父さん」という文字と、メッセージ内容の概略が表示されていた。
昔のスマホは単純にメッセージの差出人と冒頭部分が表示されていたそうだけど、この時代にはすでにAIがメッセージ内容を解析して、大まかな内容が伝わるように表示されるようになっていた。父さんにいわせるとそれはまだまだ小学生の要約並みで、ときにはまるで逆の内容になってしまっていることもある。だからどのメーカーも、「要約機能は完全ではありません。必ず元のメッセージをご確認ください」という注意書きをどこかに添えていた。
だけど、この要約は……。
《会ってほしい人がいる》
間違えようがない。たとえ小学生であっても、いや、幼稚園児であっても間違えるはずがない。
おそるおそるメッセージ本文を開くと、ほとんど変わりのない文字が並んでいた。
《ミサキに会ってほしい人がいるんだ》
要約する必要もないくらい、簡潔な文だった。今回、わたしのスマホに搭載されているAIは見事な仕事をした。してしまった。この文をなんとかして短くしろといわれたら、《会ってほしい人がいる》以上の正解はないだろう。
覚悟はしていた。高校生の娘がいるといったって、父さんはまだ老人なわけじゃない。いずれ誰かと出会って、再び恋に落ちて、再婚して、年の離れた弟ができたりなんかしてと、想像してみたことがないわけじゃない。
いやむしろ、それを望んでいた節がある。父さんはもっと幸せになっていいはずだ。
冗談めかして、そんな話をしたこともある。
「お父さん、研究所にいい人いないの?」
たいていそれは朝食の席、トーストの焼き加減が完璧で、二人ともご機嫌なときだった。
「いいかい、ミサキ。研究機関には素敵な女性がいないというのは偏見だ、というのこそ偏見なんだよ」
「またあ、そんなこといって」
「まあ、それは冗談だけどさ。素敵な人っていうのは、たいていすでに別の素敵な人とくっついてしまっているものなんだ。残念ながらね」
さほど残念にも聞こえない口調で、父さんはいっていた。
それでも、父さんはもっと幸せになっていい。
だって父さんは、早くに母さんに先立たれて、身体の自由のきかない娘の世話をして、仕事だって夜遅くまでがんばって、それなのにいつもわたしに優しくて、それなのにわたしは学校にも行かなくて、それなのにわたしは……。
まだスマホの画面に見入っているうちに、車のヘッドライトの明かりが部屋の天井をなめた。続けてタイヤが土を踏む音と甲高いモーター音。
父さんだ。
メッセージのタイムスタンプを見ると、三時間も前の時刻が記されていた。父さん、きっとわたしがとっくにこのメッセージを見たと思ってるんだろうな。未読マークなんて、気にしないもの。
わたしは深呼吸して、気持ちを落ち着けようとした。
父さん、なんていって切り出すんだろう?「研究所の同僚で、気の合う人がいて」とか、「ミサキにもお母さんが必要だと思って」とか?
いや、「お母さんが必要」はないな。父さんがそんな「おまえのために」みたいな言い訳めいた言い方をするわけがない。きっと正直に、「父さん、研究所で好きになった人がいて」っていうに違いない。
いやいや、それをいうなら研究所の人って決まったわけじゃないんじゃない?研究所に出入りしている業者の人とか、食堂で働いてる人とか、もしかしたらふと立ち寄ったカフェの店員さんとか?
いやいやいや、もうすでにわたしが知ってる人だったらどうしよう?でもわたしが思いあたる父さん関係の女の人って、研究所の人くらいしかいない。あとは食材宅配サービスの配達員さんだけど、いくらなんでも、恋は年齢じゃないといってもお歳がお歳……。
そんなことをベッドの上で転がりながら考えているとき、ふと気付いた。
父さん、まだ家に入って来ない。
それどころか、まだ車から降りて来てさえいない。
これは、まさかとは思うけれど……。
父さん、いきなりその人連れて来るつもりじゃ?
もしかしていま、車の中で二人でわたしにどう切り出すか相談してる?
慌ててスマホを握り直し、次のメッセージに目をやると、
《今日、連れて行く》
と、要約の必要もないほど簡潔なメッセージが浮かんでいた。
ちょっと待って!いくらなんでも急過ぎる!お父さんの好きになった人が、わたしのお母さんになるかも知れない人が、わずか十メートル先に突如として現れるなんて、そんなの心の準備ができてない!
わたしは反射的にカーテンを閉めてしまった。閉めてしまってから思った。これが拒絶のメッセージと取られてしまったらどうしよう?車から見上げたわたしの部屋のカーテンが、さっと閉じられる様子をその人が見てしまったら?
そんなつもりはないのに。ただ少し間を置きたくてカーテンを閉めただけなのに。
だけどリナとだって、そんなつもりはないのにこうなってしまった。
また繰り返してしまうの?今度は父さんの大事な人に、わたしは突き放されてしまうの?
車のドアが開く音がして、やけに長い間があって、ようやく閉まる音がした。どうしてだろう?やっぱり家に入るのを躊躇しているんだろうか?二人でなにか話していたんだろうか?「いきなりカーテンを閉めるだなんて、歓迎されてないんじゃないかしら?」「メッセージの返信もないんでしょう?きっと受け入れてもらえないわ」「家に引き籠もったままなんでしょう?それじゃあやっぱり……」
会ったこともない女の人の声が、聞こえてくるような気がした。
違います、違うんです。
父さんを、父さんが選んだ人を拒絶するつもりなんてないんです。だけどちょっぴり急過ぎて、心の準備ができていなくて、いきなりだから驚いてしまって。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。一階で荷物を置く音や、歩きまわる音が聞こえた。
そして、父さんがわたしを呼ぶ声が。
「はーい」
わたしは極力平静を装った声で返事をした。
大丈夫、大丈夫。
最初の一歩はつまずいたかも知れないけど、それだって向こうは気にしていないかも知れない。それどころか、カーテンを閉めたわたしに気付いてさえいないかも。
わたしは車椅子に座ると、バラバラになった自分をかき集めて階下に向かった。
昇降機の動きが、こんなに速く感じられたことはない。もう少し、もう少しだけ気持ちの整理をつける時間がほしい。
無情な昇降機に運ばれていちばん下まで降りると、わたしは操作レバーを倒し、リビングへと車椅子を進めた。タイヤと床が擦れる音がやけに大きく聞こえた。
部屋に入ると、父さんが立ったままこちらを見ていた。
「ミサキ、メッセージで書いたけど会ってほしい人っていうのは……」
「い、いらっしゃい!ゆっくりしていってください!」
わたしは笑顔になっているはずの顔で、できる限りの愛想を込めていった。さっき拾い集めた自分の欠片の中に、できるだけたくさんの愛想が残っていることを祈りながら。
立っている父さんとは対照的に、その人はソファに腰掛けていた。いや、なかば寝そべっていたといってもいい。
父さん、父さんがどんな人がタイプなのかは知らないけれど、骨だけしかない人を好きになるのは、あまり趣味がいいとはいえないと思うよ。




