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ハンス 〜存在しなかったA.I.ストーリー〜  作者: わだだわ


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4 目玉焼き

「わたし、学校に行きたくない……」

 なにひとつ喉を通らない朝食の席で、わたしは父さんにいった。

 うちには母さんがいないって話はもうしたかしら?小さい頃は、「ミサキは父さんから生まれたんだ」って父さんはよくいっていたけれど、それが嘘だとわかる年齢になると母さんはもう死んでしまったって話してくれた。小学校に上がる頃かしら。

 それ以来ずっとわたしたちは二人で暮らしていたから、車椅子生活と同じく、わたしにとってはそれがあたりまえだった。

 父さんはいつも帰って来るのが遅くて、夕食は別々にとることが多かったんだけど、朝食は一緒に食べるのが我が家の習慣だった。そして朝食を準備するのはわたしの役目。

 でもその日はなんの支度もしていなくて、父さんが慌ててトーストと目玉焼きを作ってくれた。父さんが作る目玉焼きはいつも黄身が固くて、まるで粘土みたいだってよく笑っていたわ。

 だけど大急ぎで作ってくれたからか、その日の目玉焼きは黄身がとてもやわらかくてお皿をテーブルに置いただけでぷるぷると震えていた。

 わたしの言葉を聞いて、父さんは「どうしたの?」とはいわなかった。どうして?なにがあった?原因は?なにひとつ質問せず、ただトーストを頬ばりながらこういった。

「そっか。じゃあ、休んじゃおっか」

 それが、母さんがいなくてもわたしが寂しくない理由だった。

 あまりにも幼かったから、わたしは母さんが死んでしまったときのことを覚えていない。他の子たちが母親と遊んでいるのを見ても、うらやんだりひがんだりすることはなかった。

 父さんは母さんの不在を埋めてなお余りあるほど、わたしを愛してくれた。そして、信じてくれた。それはどんなときも変わらない。

 この日も父さんは、わたしのいうことをあっさりと認めてくれた。父さんならきっとそうする。それはわかっていたけれど、実際にそうなるとわたしはいくらかたじろいだ。

「いいの?」

「いいんじゃないかな。まあ今年はちょっと早い夏休みに入ったということで」

 夏休みまではまだ二ヶ月近くあるというのに。たったそれだけの会話で、わたしはその日から学校に行かないことに決まった。

 父さんはそれ以上なにもいわないで、口の中のトーストをオレンジジュースで流し込むと、上着を羽織って会社に向かおうとした。

「火の元だけは気をつけてね。あと、出かけるときは鍵を……って、そのへんはミサキの方がしっかりしてるか」

 そうなのだ。父さんは会社でとても精密な仕事をしているくせに、いやその反動か、いろんなところが抜けている。洗濯物を入れずに洗濯機を回してしまったり、靴下が左右違うなんてことはしょっちゅうだ。あるときには鍵どころか、ドアそのものを開け放ったまま一日外出していたことがあった。幸いにも、泥棒が入ったりすることはなかったけれど。

「ねえ、お父さん」と、わたしはその背中に呼びかけた。「お父さんは、会社に行きたくなくなったりしないの……?」

「うーん」父さんはしばらく考えてからいった。「ないなあ」

 すっかり冷えてしまったトーストは、どんなにこすりつけてもバターが溶けていかなかった。

「行ってきます」と父さんが開けた玄関から湿った風が入ってきて、雨の季節が近付いていることを告げていた。

 一人になると、家の中はいつもよりいっそうがらんとしているように思えた。

 父さんが先に家を出るのはめずらしいことじゃない。わたしが先だったり、父さんが先だったり。だから朝食後、わたしが一人でいるのもよくあることだった。

 だけど、今日は。

 今日このあと、わたしは学校に行かない。

 もちろん、学校に行かないという人生があることも知っている。

 そもそも発展途上国ではとか、宗教上の理由で女性に高等教育を認めていない国もあるとか、そんなことも知っている。知識としては。

 でも知識として知っているのと、実体験として持っているとのは違う。やっぱりわたしのまわりでは学校に通うことが普通だったし、高校に籍を置いている人間が一日中家にいるという普通じゃない現実が胸に迫る。

 だけどもう、リナに会わなくてすむ。もう、教科書を隠されたり、手の届かないロッカーの上にカバンを載せられたりしなくてすむ。もう、あなたにも原因があるなんていわれなくてすむ。もう、廊下を荷物でふさがれなくてすむ。もう、エレベーターで行きたくもない階のボタンを全部押されなくてすむ。もう、もう、もう……。

 フォークの先でつつかれた黄身が、だらりと流れ出した。

 わたしの目からも涙があふれた。

 皿を汚す黄身を、わたしは冷えて硬くなったトーストで拭うようにして口に運んだ。皿に押しつけられたトーストは、ぽろぽろと崩れてテーブルの上に散った。

 わたしは自分がちりぢりになっていくような気がした。

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