31 仲良し
「ねえ、ハンス……」
遠い空の彼方から、雨が降り続いていた。それはまるで世界中の雨がわたしに降り注いでいるかのようで、わたしは自分の声すらほとんど聞こえなかった。
身体は、動かなかった。モーターと人工筋肉の駆動力を失ったハンスはもはや金属とプラスチックの錘と化していて、わたしは腕を持ち上げることすらおっくうだった。
もともと動かないのは足だけのはずなのに、瓦礫の重さと戦い続けていたわたしの身体はもうすっかり疲れ果てていた。
「大丈夫?」
大丈夫じゃないことくらい、疑う余地もなくわかっていた。だけどそれ以外に聞きようもなく、わたしは自分の無力さを呪った。
破れた服から覗く腕や足のフレームは傷だらけで、歪み、接合部が口を開けてしまっているのが一目でわかった。
視野の隅では、リナたちが呆然と座ったまま雨に打たれている。
「ビルから飛び降りでもしない限りビクともしないんじゃなかったの?」
バックパックもひしゃげてしまっているのが背中の感触でわかった。
「ミサキ」
スピーカーにも水が入り込んでしまっているのかも知れない。ハンスの声はノイズ混じりだった。
「わたしはもうじき機能を停止するようです」
それがバッテリー上がりによる一時的なものでないことは、痛いほどわかっていた。
誰か来て、誰か助けて。
誰か、ハンスを。
ハンスは完全な形でのバックアップを取っていない。だからハンスは、唯一無二の存在だ。わたしと同じ、わたしたちと同じ、失われればそれきりになってしまう。
「ミサキとミサキの友だちは怪我をしていませんか?」
わたしはリナたちに声をかけなかったし、彼女たちも押し黙ったままだった。
この期に及んでわたしたちの心配をするハンスは、ここにいる誰よりも人間らしいのかも知れなかった。
リナたちに怪我はないようだった。いくつか破片はぶつかったかも知れないけど、少なくとも大きな怪我には至っていない。
突然、右腕に鋭い痛みが走った。裂けた木材が服を貫いて、肩の少し下のあたりに刺さっていた。
「大丈夫。わたしもリナたちも大丈夫」
襟元にあるハンスのカメラからは、わたしの傷は見えないはずだった。
「麓に下りたら、念のため診察を受けることをおすすめします。いまは興奮状態にあると考えられますので、多少の痛みは感じられないかも知れません」
ということは、この段階で痛んでいるわたしの右肩の傷はけっこうひどいってことじゃない。ほんとにもう、空気が読めるんだか読めないんだか。病院に行く前から怖がらせないでよ。
でも病院に着いたとき、もうハンスはいない。
それが、不安でならなかった。
さみしくてならなかった。
顔を洗う雨に負けないくらい、わたしの目から涙があふれた。
「ミサキ」
ノイズ混じりの声で、ハンスはいった。
「ミサキには、かなえたい願いはありますか?」
こんなときに、なにを言い出すのかと思った。でもそれは一瞬のことだった。ハンスがお別れをいおうとしているのが、わたしにはわかった。
だけどわたしには、これといって願いがない。夢がない。
「次のハレー彗星、ハンスと一緒に見たい」
このあいだ話した夜更けの空にはハレー彗星は影も形もなく、ただいつもと同じ星空が広がっていた。
だから次回は、大彗星になると予想される二一三四年には、夜空を横切るハレー彗星を一緒に見ようとそういっていたのだった。
「わたしにもあります」
人工知能にも願いがあるの?とは思わなかった。そんなふうに思うには、ハンスはあまりにも人間になり過ぎていた。
「なに?」
「ミサキの願いもわたしの願いも同時にかなうものです」
ハンスの言葉には、相変わらず感情的な抑揚がない。でもどうしてか、わたしはハンスがほほえんでいるように思えた。
「ミサキ、できることならもう一度、わたしを作り出して下さい」
わたしは手を握りしめた。拳の中で、爪が手のひらに深く突き刺さった。
そんなこと、できるわけない。
父さんほどの才能にも、リョウコおばさんほどのバイタリティにも恵まれていないわたしに、そんなことは。
「ミサキはわたしのお母さんでした。ミサキを通じて学習することで、わたしはわたしになれました。だからどうかもう一度、わたしを生み出してください」
「うん」
他になんと答えられただろう?
「研究所で完全なバックアップを取らせなかったのは失敗でした。ですが、あのプログラムにはわたしの多くの要素が含まれています。詳細に分析すれば、自意識を持つ人工知能を作り出すことができるかも知れません」
わたしは泣き声をあげないように、大きく口を開けて息をした。ハンスが最後に聞くのが、わたしの嗚咽では悲し過ぎる。
「わかった。がんばる」
わたしにいえたのはそれだけだった。それ以上、ひと言でも発したら、わたしは小さな子どものように大声で泣いてしまっていただろう。
「わたしの発展型は、きっと人間のいいパートナーになれると思います。わたしがミサキと仲良しになれたように」
「うん」
「わたしはミサキの友だちでしたか?」
「うん」
「友だちなのにミサキをお母さんと呼ぶのは、少しおかしいですね」
「うん、そうだね」
「ミサ……」
唐突に、ハンスの言葉が途切れた。それと同時に、降りしきる雨を青く照らすインジケータが消えた。
わたしは大雨の中、後にも先にもないくらい大声で泣いた。周囲を叩く雨の音すべてが、わたしの泣き声のように聞こえた。




