32 おやすみなさい、お母さん
「それから、どうなったのですか?」
端正な顔のHBが聞いた。その顔にはなんの感情も浮かんでいない。
「雨が止むのを待たずに、わたしたちは消防団の手で救出されたわ。家に帰って来た父さんがわたしの残したメモを発見して、警察に連絡したの。その頃には通信も回復していたのね。
山を下りてから念のため二、三日入院したけど、怪我はたいしたことなかったし、あの雨で風邪や肺炎にかかることもなかったわ」
HBは彼女のカルテを呼び出し、照合した。確かにミサキの右肩には裂傷の跡があった。
彼は、これが彼女が人工知能研究に踏み出したきっかけなのだろうと判断した。それが事実であれ妄想であれ、少なくとも現在の彼女の中ではそういうことになっている。
「それからは死に物狂いで勉強したわよ。どうにかしてハンスを再生できないかと思って。 大学では電子工学を専攻して、大学院卒業後は父さんの研究所に入った。そうでないとハンスのデータにアクセスできなかったから。それでも結局、わたしにはハンスのような人工知能を作り出すことはできなかった。
一度なんて、完璧にうまくいったと思うこともあったのよ。だけど結局、それは中国語の部屋に過ぎなかった」
HBはネットにアクセスして、「中国語の部屋」を検索した。
なるほど。中国語がわからない人を部屋に入れて、その部屋に中国語が書かれたメモを入れる。中にいる人はマニュアルにしたがってそのメモに書かれた中国語に別の言語のルビを振り、部屋の外にメモを返す。するとそのメモを読んだ人は「部屋の中には中国語を理解できる人がいる」と考える。
実際には中にいる人はマニュアルどおりにルビを振っているだけであり、中国語を理解してはいない。それでも外から見れば、まるで部屋の中に中国語を理解している人がいるように思えるわけだ。
そこには「この入力にはこの出力を返せ」という単純なサブルーチンがあるだけであり、実際に中国語を理解しているわけではない。それどころか、中の人は自分がなにをしているのか理解している必要すらない。このインプット・アウトプット・セットを人工知能とは、間違っても呼べないだろう。
「でもそのいちばんうまくいったモデルが、一度はハンスが復活したんじゃないかと思ったモデルが、あなたたちHBのシステムのもとになっているのよ。
だからあなたたちはみんなハンスの子孫といえるかも知れないわ。だってハンスが、少なくともあなたたちを作り出すきっかけにはなったんですもの」
「ハンスはまだ、人類の前に姿を現すには早過ぎると思っているのかも知れませんよ」
「それはわたしをなぐさめているのかしら?生意気ね。それにもしハンスが本当にそう思っているのなら、ハンスも同じよ。生意気だわ」
言葉とは裏腹に、彼女の横顔は懐かしそうでもあり、さみしそうでもあった。
「ご自身の一生を人工知能開発についやしたことを、後悔しているのですか?」
覗き込むようにして、HBはいった。
「わたしはハンスとの約束を守れなかった。でも約束を破ったとは思っていないの。がんばるっていう約束はこれ以上ないほど守ったつもりよ。でもそれが届かなかっただけ。人間、生きていればそんなこともあるわ。がんばっても、がんばっても、うまくいかないことが。
ハンスなら、きっとわかってくれる。わたしたちは友だちなんだから」
HBは不思議そうな顔をした。彼女はその表情が気に入った。
「すっかり遅くなってしまったわね。明日の朝には、彗星が見えるかしら」
彼女はベッドの横の窓から、暗い夜空を見上げた。
近日点を通過したハレー彗星がようやく太陽の向こうから顔を出したというのに、ここのところ曇ってばかりだ。探査機からの映像ではそれはそれは見事な尾を引いているらしいが、彼女はまだ肉眼でその姿を見ていなかった。
「明日の朝、日の出の一時間前に起こしてくれるかしら?」
「おやすみになっていた方がいいのではないですか?」
身体には大きな病症はないとはいえ、高齢者の眠りは浅い。眠れるときにしっかり眠っておいた方がいい。寝ているものをわざわざ起こすのは決していいこととは思えなかった。
「そういうところはハンスに似ているのにね。融通が利かないったら」
彼女はふんっと鼻を鳴らして、腕を組んだ。
「あなたが起こしてくれなくても、わたしは自分でアラームをかけて起きるだけよ。ただあなたが起こしてくれれば、きっと上掛けを持ってきてくれるから身体を冷やさなくてすむだろうし、おまけに紅茶を淹れてきてくれればそれを飲みながらおしゃべりもできるわ」
どうだ、といわんばかりに胸を張る彼女を見て、HBは肩をすくめて降参の意を表した。
「わかりました。明日、午前三時四十四分に起こしに来ます」
「誰を?」
「ミサキを」
「どうして?」
HBの中で、警報が鳴り響いた。ミサキはたったいました話を記憶していない。彼女の認知症は思ったよりも進行しているのかも知れない。いますぐドクターに連絡すべきだろうか……。
「ミサキ、ここがどこだかわかりますか?」
まずは標準的な見当識テストを行ってみよう。問題があるようならすぐにドクターに連絡だ。
ミサキはがっかりしたように渋面を作った。
「冗談よ。ここはわたしの自宅で今日は二一三四年の五月十四日。なんならID番号もいいましょうか?
まったく、少しは驚いた顔をしたらどうなの。おもしろみがないったらないわ」
HBは驚きはしなかったが、彼女がまだ存分にユーモアのセンスを振るえることに安心はしていた。
ユーモアは高度に知的な活動だ。それを意識的に行えるということは、ミサキの脳の状態は良好といえた。
「それじゃあ、おやすみ」
背中を支えるベッドが音もなく水平になり、HBをからかって満足げなミサキは顎のあたりまで布団を引き上げていた。その寝顔には、まだ彼女が高校生だった頃の面影が残っていると、HBは思った。
それに、少しだけ唇をとがらせて眠る癖も、あの頃と変わっていませんね。
HBはベッドトレイのティーカップを片付け、室温をチェックしてから明かりを消した。
ドアのところで振り返ると、薄明かりの中でミサキはすでに寝息を立てていた。
「ようやく一緒にハレー彗星が見られますね。今回のハレー彗星はとてもきれいなんですよ。
おやすみなさい、お母さん」
ドアを閉めるHBの顔は静かに微笑んでいた。




