30 学校には行けないね
それからどれくらい経ったのか、わたしにはわからなかった。風は相変わらず強く吹きつけ、雨は飽きることなくわたしたちの身体を打っていた。
誰もが黙って、内外で荒れ狂う嵐と戦っていた。
そんなとき、ふいにハンスがいった。
「ミサキは二学期から学校に行くのですね?」
ああ、ハンス。あなた、やっぱりまだときどき空気が読めないのね。いまこの五人の命がかかっている状況で、わたしが学校に行くかどうかを気にするなんて。
でもそんなのんきな話が、わたしの心を少しだけ軽くしてくれた。
「うん、行こうと思う」
もう、わたしが学校に行くことを妨げるものはない。この子たちはもう二度とわたしに手を出せないだろうし、今日ここにいない子たちだって、手を出そうとしたらこの子たちが全力で止めに入るだろう。そうでなければ、自分たちの立場が危ういのだ。
「そうですか。学校は人間が学習するのにとても重要な位置を占める場所のひとつだと認識しています」
学校だけが学ぶ場所じゃない。そんなことはハンスもわかっている。だけど学ぶことにおいて、学校の役割が大きいことは事実だ。それもハンスはわかってる。なにしろ学校という言葉自体が、学び交わる場所という意味なのだ
その意味では、ハンスも一緒に学校に行けばどれだけ刺激になるかわからない。ショッピングモールや水族館に行ったことはあったけれど、なにしろわたしはこれまで引き籠もり同然で、あまり多くの人と関わってこなかった。
だけど学校に行けば、否が応でもたくさんの人と関わることになる。それはハンスの感覚運動学習にとって、大きな収穫となるはずだった。
「たくさん人がいるから、ハンスも大変かも知れないよ」
相変わらず誰と話しているのかわからない様子のリナたちを無視して、わたしはハンスと会話を続けた。
「学校ってね、いろんな人がいて楽しいんだ。毎日やることは決まってるし、スケジュール管理されてるんだけど、それでも二度と同じことが起こることはないの。いつもいろんなことが起きて、ハンス、ビックリしてバグっちゃうかも知れない」
いいながらわたしは、ハンスがたくさんの生徒に囲まれて戸惑っている姿を想像した。まだ融通の利かないハンスのことだから、いちいち自己紹介したり、質問したり、授業中にうるさいって先生に怒られたり、そんな様子をユイちゃんに笑われたり……。
そうだ、体育の授業にだって参加できるかも知れない。ハンスとなら、リナの得意なバスケでだって、勝てるかも知れない。
「残念ですが、わたしはミサキと一緒に学校に行けそうにありません」
「え?」
わたしの夢想は突然打ち切られた。まるで映画の途中で明かりがついてしまったように。
「なんで?」
それがハンスを研究所に返さなければならないとかいう理由だったら、わたしはなんとしても父さんに抗議するつもりだった。部屋に立て籠もってでも、ハンスと一緒にいさせてもらうつもりだった。
だけどハンスが続けた言葉には、どうにもならない現実が埋め込まれていた。
「バッテリーの残りがわずかになりました。アクチュエータならびに人工筋肉にかかる負荷も規定耐久値を超えています。さらにバックパックに侵入した雨水によって、マザーボードが間もなくショートすることが予想されます」
ハンスは本来、長時間にわたって大きな力を出し続けるようにはできていない。ハンスのエクソスケルトンの部分は、あくまでも人間の日常動作を補助するために作られたものだからだ。
だからこんな使い方をしていたら、あっという間にバッテリーが尽きる。かつてハンスが自慢していた防水機能だって、一度破られれば終わりだ。
「じゃあ、早く……」
早く逃げなくちゃ、という言葉はしりすぼみになって消えた。逃げられるわけがないのだ、どこにも。
バッテリーが切れても、モーターが壊れても、マザーボードがショートしても、わたしたちは潰される。潰されて死ぬ。
「そっか、じゃあもう学校には行けないね」
ようやく事態を飲み込み始めたリナたちが、ひきつるように息を吸った。このわずかな空間、彼女たちの命を繋いでいるちっぽけな空間を支える唯一の柱であるわたしが、もう折れかけているのだ。
それを理解した彼女たちは、呻きとも喘ぎともつかない声をあげた。
一方でわたしは、自分でもビックリするくらい冷静だった。リナと、そして同時に自分の気持ちと真っ向から向き合ったことで、溜め込んでいた感情のストックが尽きてしまったみたいだった。
ここで終わるなら、まあいいか。
きっと父さんを悲しませてしまうし、ユイちゃんも泣いてくれるかな。リョウコおばさんは泣きながら怒るかも知れない。でもわたしはリナたちのイジメに負けたまま終わるわけじゃないし、毎日をうじうじと生き続けるよりはずっとましな気がした。
でもどうせなら、リナたちには生き残ってほしい。いじめていた相手に助けられて、自分たちだけ生き残って、ずっと後悔しながら過ごせばいい。きっといつかは忘れてしまうのだろうけれど、その苦痛ができるだけ長く続けばいいと、わたしは冷めた頭で思っていた。
たぶん、こんな最低の考えしか持てないわたしだから、ここで終わるんだろう。
わたしの命と引き換えにリナたちが心を入れ替えてくれればとか、わたしのぶんまで生きてほしいなんて、そんなこと思えない。思えるはずがない。
わたしは普通の人間だ。ただの高校生の女の子だ。映画の主人公みたいに、格好良く死んでなんかいけない。こうやって人を呪いながら、かつては友だちだった、憧れていた子の不幸を願いながら死んでいくしかできない、どこにでもいる最低の人間に過ぎない。
「ミサキは学校に行きます」
ハンスの言葉は、やけに自信に満ちて聞こえた。
「ミサキは学校に行きます」
繰り返す言葉は、なにかを確信しているようだった。
「だって、もうダメなんでしょ?」
それにひきかえわたしの言葉は、人工知能の声より生気がない。
「バッテリーは尽きかけていますが、まだもうひと働きくらいはできます。負荷の大きさから、人工筋肉とアクチュエータは破損すると思いますが、状況の打開は可能と判断します」
ハンスがなにをしようとしているのか、すぐにわかった。ハンスも、わたしが理解していることを理解していた。それくらいには、わたしたちはお互いを理解していた。
ハンスに対抗して力を込めていれば、もしかしたらハンスの動きを止めることはできたかも知れない。だけどハンスと協力して瓦礫を支えていたわたしには、もう抵抗する力は残っていなかった。
ハンスの本来の機能は、装着している人間の動作を補助することだ。ハンス本体の目的は感覚運動学習でも、エクソスケルトンの機能はわたしの動作を助けることだった。
でもいま、ハンスはわたしの意志を無視して、自分自身の意志で動こうとしていた。
これまでにないくらいの唸りを上げて、ハンスのモーターが動き始めた。肩が、肘が、腰が、膝が、わたしの意志とは無関係に動いた。
「待って、ハンス……!」
わたしの身体は伸び上がり、瓦礫の山を押しのけた。ガラガラと音を立てて、わたしの背中からかつては壁や屋根や柱だった建材のなれの果てが崩れ落ちていった。
ハンスはわたしの腕や背中の角度を微妙に調整して、できる限りわたしの身体にもリナたちにも瓦礫がぶつからないようにしていた。大きさも重さも不揃い、ましてや雨でどう滑るかわからない瓦礫の動きをコントロールするのは至難の業のはずだ。
もともとハンスの演算能力は高い。それでもこんなことをやるには相当なCPUパワーが必要なはずで、そのぶんバッテリーの消耗も激しい。
ようやくまっすぐに立ち上がったとき、わたしの腕や足は無数のミミズ腫れや擦り傷で覆われていた。
リナたちはみんな、両手で頭を抱えたままかたまっている。
雨の中、リナたちを見下ろして仁王立ちするわたしは、もう気絶寸前だった。
怪我のせいでというより、一気に身体を伸ばしたことで血圧が急激に低下したせいだろう。さっきまで瓦礫の重さを支えるために身体中に込めていた力を緩めたことも、それを後押ししていたと思う。
気を失いそうなほど、わたしの意識は薄れた。
ダメだ、意識を失っては。いま意識を失ったら、二度とハンスと話をすることはできなくなってしまう。
ハンスはなけなしの電力を使って、わたしたちを守った。もう、長くはもたない。
途切れそうになる意識の糸を必死につなぎ止めたわたしが感じることができたのは、瓦礫の上に仰向けに寝ころんでいる自分自身の姿だった。




