28 ねじくれた心
石段を登り切ったわたしは、まっすぐに拝殿を目指した。人がいるとすればそこしかなかったからだ。この境内に、他に雨風をしのげるような場所はない。
わたしもだいぶ疲れていたし、なにより雨で体温が奪われていた。そのせいでさっきから少し身体が震えている。
境内をまっすぐに横切って短い階段を上がり、木でできた扉に手をかけた。本当ならそこにあるはずのお賽銭箱は、もう撤去されてしまっているようだった。
土足で上がり込むのは不謹慎なような気もしたけど、靴を脱いだところでどのみち足の裏は泥水で汚れてしまっているに違いなかった。
力を込めて横に引くと、扉はガタガタと音を立ててためらうように開いた。
そして懐中電灯に照らし出された室内に、リナたちがいた。
眩しそうにこちらを見る彼女たちの顔は濡れて、お化粧がグズグズに流れていた。服は濡れた様子がなかったから、どうやら雨に打たれる前に拝殿の中に避難できたらしい。彼女たちの顔を濡らしているのは涙だろう。実際、こちらを見ながら鼻をすすり上げている子もいた。
それでも拝殿はあちらこちらから雨漏りしていて、彼女たちはそれを避けて身を寄せ合うように隅の方でひとつにかたまっていた。
さらに奥の木造の階段の上には崩れ落ちた祭壇があり、かつてはご神体として祀られていたはずの丸い鏡も床に落ちてホコリをかぶっていた。
丸い鏡は太陽を表していると聞いたことがある。天照大神は太陽だから、それを模した丸い鏡をご神体にしているのだと。だけどその太陽はすっかり汚れてしまっていて、空にかかる雨雲を追い払う力はありそうになかった。
懐中電灯の光をそらすと、わたしの姿を認めた彼女たちの顔に驚きが広がった。それはそうだろう。誰かが助けに来てくれたと思ったら、それがわたし一人で、しかもわたしは二本の足で立つことなどできないはずの人間なのだから。
わたしの方も、驚きを隠せなかった。まさか、本当にリナたちがいるなんて。
リナだけは少しだけ様子が違っていた。ショッピングモールでの一件で、リナだけはわたしが立って歩けることを知っているはずだったから。それにもしかしたら、ユイちゃんからも話を聞いているかも知れない。
それでもやっぱり、わたしがここに来たことはリナにも驚きを与えたようだった。
「ミサキ……」
リナがそういった途端だった。他の三人の女の子たち、かつては教室で毎日のように顔を合わせていた子たちが、緊張の糸が切れたようにいっせいに声をあげて泣き出した。
助けに来たのがわたしであること、そのわたしがあり得ないことに自分の足で立っていることへの驚きよりも、とにかく誰かが来てくれたという安堵が勝ったのだろう。
それくらい、わたしたちはネットとつながっていないと不安なのだ。
わたしだってそうだ。家にいて電気もネットもダウンしてしまったとき、わたしは世界から孤立してしまったような気がした。ハンスがいてくれはしたものの、ネットがつながらないまま何時間も経ち、そのあとで父さんが帰って来たとしたら、わたしは年甲斐もなく泣き出していたかも知れない。
それがいま目の前で繰り広げられている光景だった。
そう思うと、わたしと彼女たちのあいだに違いはないような気がした。学校では、そしてイジメが始まってからは特に感じていたような、わたしと彼女たちとの相容れない違いは。
「ミサキ、ここネットも電話もつながらなくて、雨がすごくて下りられなくて……」
リナはわたしに言い訳をするようにいった。その声は外の音にかき消されそうなほど弱々しかった。こんなリナを見るのは初めてだった。
要は、リナたちで今年はいつもと違う場所で花火を見ようという話になった。そこで誰かがザビエル神社からなら花火が上から見えるらしいという情報を仕入れてきて、早々に出かけたはいいけれど、突然の嵐で帰れなくなった、と。おまけにここはネットも電話も圏外だから、誰にも連絡することができず、助けを呼ぶこともできず、無事帰れるか不安な上に帰ってからこっぴどく叱られることは確定しているから、それも重なって四人の不安はピークに達していたらしい。
だからわたしのような人間が独りでやって来たにもかかわらず、溜め込んでいた彼女たちの感情のダムはあっけなく決壊してしまったというわけだった。
「誰にもここに来るっていっておかなかったの?メモを残してくるとか?」
わたしは出かける前に、ダイニングのテーブルの上に書き置きを残してきた。連絡が取れなくても、父さんが帰って来たときに心配しないように。
質問するわたしの声は、だいぶぎこちなかった。
いじめる側といじめられる側、攻勢側と守勢側、有利な側と不利な側。それが思いがけず逆転した構図に、わたしもレナたちも落ち着かないでいた。
「ここが圏外だなんて知らなくて……」
グズグズとしゃくり上げながら、女子の一人がいった。
リナたちはザビエル神社に来て初めて、ここが圏外であることに気付いた。ネットにつながらないのは心細いけど、花火が終わればすぐ下におりて通信を回復できる。そうしたら、「じゃじゃーん、ザビエル神社から見ていたのでした!」と上から撮影した花火の動画とともにグループ・メッセージでタネ明かしをすればいい。ちょっとしたスリルが楽しかったし、動画を見たみんなはうらやましがるだろうな。
そんなふうに考えてのことだった。
実に、リナらしい。いつもみんなの中心にして、注目されて、話題を独占して。
「ミサキは、誰かにここに来るっていってあるの?」
別の一人が聞いた。
「ううん、雷が落ちてうちの近所一帯、電波止まっちゃってるらしくて」
期待が落胆に変わるのがわかった。だけどメモを残してきたことを説明すると、わずかながら、みんなの気持ちは持ち直したようだった。
「人を呼んでくるけど、その前に誰か来てくれるかも知れないし、雨が止んだら自分たちで下りられるから」
この雨がいつ止む見込みなのか、それがわからないことには触れずにおいた。出がけには天気予報を見てこなかったし、電波の届かないここでは確認のしようもないからだ。
それでも無事に帰れる見込みに、彼女たちの顔に明るさが戻った。そして他のことに気をまわす余裕も。
「ミサキ、車椅子は?」
最初に口を開いた子が聞いた。
「ええと、あの、介助装置みたいなのを着けてて……」
それが人工知能を搭載していて、ていうかそもそもその人工知能の感覚運動学習のためにわたしが身に着けていて、という話はややこしくなり過ぎるので省略した。
それからもちろん、ハンスという名前も、自意識に目覚めているらしいことも。
これがユイちゃん相手だったら、わたしはよろこんで話していただろう。ユイちゃんはSF好きで、こういうことにすぐに理解を示してくれそうだったし、なによりわたしの友だちなのだから。
だけどリナたちには、それをいうつもりはなかった。わたしのせせこましい心は、この期に及んでなお彼女たちを許そうとはしていなかった。
「そうなんだ、すごいね」という、当たり障りのない返答がわたしの耳に届くか届かないかというところで、ひときわ大きな風の音がして、拝殿が大きく揺れた気がした。
ミシリ、という音も聞こえたような気がしたけど、それはほぼ同時に鳴った雷の音にかき消されてしまった。わたしの足もとでは雷鳴に驚いたリナたちが、お互いの身体をかき抱いている。
彼女たちの姿が、ちっぽけに見えた。
三人はみんなイジメに加わっていた子たちだった。その子たちをこうして見下ろしていること、彼女たちが身動きできずに縮こまっている雨の中をわたしは歩いてやって来たこと、そしていまから助けを呼びにここを出て行こうとしていること。
そんなことが、わたしに甘い優越感を与えた。わたしをいじめていた彼女たちにできないことを、わたしがやっているという揺るぎのない事実。
そのとき、わたしは突然気付いてしまった。甘い優越感のカーテンの向こうにチラチラと見え隠れする、醜く、歪んで、ねじくれたわたしの本心に。
わたしはリナたちがここにいてもいなくても、どうでもよかったんだ。ただここにこうして来られればよかった。リナにも、他の人にもできないことを、わたしがやったという事実さえあればよかったんだ。
あの雨の中を、滝みたいに水があふれる山道を往復したの?すごいね。
連絡も取れなかっただろうに、どこにいるかわかったんだって?すごいね。
こんな嵐の中、友だちを心配してザビエル神社まで行ったんだって?すごいね。
そんな事実さえあればよかった。
わたしをいじめていたリナを、わたしを見下していたリナたちを、見返してやることができさえすれば。
だからこの嵐も、落雷による停電も、ネットが不通になったことも、わたしにとっては渡りに船だった。
リナたちの助けになるかどうかなんてことは、どうでもよかった。わたしはあなたたちに負けてなんかいないと、そう思えればよかったんだ。
なんて、浅ましい。
自分の中にあるむせ返るほど汚い心に気付いて、わたしは絶望した。いっそのこと、どこかで足を滑らせて、滑落でもすればよかったんだ。そうすれば、こんな気持ちに気付かずにすんだのに。
それ以上、彼女たちの姿を見ていられなくなって、わたしは背を向け「じゃあ、誰か呼んでくるから」といいかけたとき、ふたたび強い風の音がして、わたしは強いめまいを感じた。
陶酔?と思った。わたしはわたしの心の奥底にある本当の気持ちを発見し、飲み込まれ、それを嫌悪する代わりに恍惚としてしまっているんじゃないかと。
だけどそんな思いは一瞬で吹き飛んだ。
本当に揺れているのだ、拝殿そのものが。
もとから朽ちかけていた拝殿の建材は至る所から侵入した雨を吸収してたわみ、歪み、自らの重みを支えられなくなっていた。そこへ空気の塊が飽きることなく体当たりを繰り返したのだ。何度目なのかは知らないけど、わたしが出て行こうとしたその瞬間に、拝殿はもう耐えることをやめてしまった。
乾いた木が折れるのとは違う、あきらかに湿った音を立てて何本かの柱が根元で折れた。支えを失った床の上にいたわたしたちは、一瞬宙に浮いた。
永遠に感じられる瞬間のあと、わたしたちは床ごと地面の高さまで落下して、そこで初めて誰かが悲鳴を上げた。
わたしたちより遅れて、上から屋根が崩れ落ちてくる。壁と天井とのあいだにできた亀裂から、容赦なく雨が吹き込んでくる。
扉の近くにいたわたしだけなら、逃げ出すことはできただろう。必死に扉に手をかけ、開けると同時に飛び出せば、拝殿がくずおれる前に外に逃げることは可能だったはずだ。
だけどわたしの身体は、まるで反対の方向に動いていた。外に飛び出す代わりに、それこそ風のようにリナたちの方にダッシュしていた。
それがわたしの意志だったのか、それともハンスの意志だったのかはいまでもわからない。でもとにかく、わたしの足はわたしの身体をリナたちと崩れ落ちてくる瓦礫とのあいだに向かわせていた。
風と風との勝負だった。
風のように走るわたしと拝殿を破壊する自然の風との速さ勝負。
耳を聾せんばかりの破壊音が聞こえて、わたしは目を閉じた。
気が付くと、足もとにリナの姿があった。どうやらわたしはリナを見下ろして立っているらしい。リナのまわりには他の子たちがひと塊になって縮こまっていた。
まわりには瓦礫が散乱し、というより彼女たちはなかば瓦礫に埋もれていた。それでも彼女たちの上には押しつぶされないだけの空間があり、かろうじて怪我はしていないようだった。
その空間を作っているのは、わたしだった。
わたしの背中には何本もの柱と、山のような瓦礫が乗っていた。
拝殿は、まるで彼女たちを狙ったかのように内側に向けて崩れ、倒れた柱はリナたちの上で交差していた。長期間放置されていたせいで傷み、スカスカになっている柱とはいえ、これだけの本数が、ましてや雨を吸い、そのうえ瓦礫まで乗った状態で直接のしかかってきたとなれば、無事ではすまなかっただろう。
その重みを一身に引き受けているのが、わたしの身体だった。
わたしの身体は、できるだけ広い空間を確保しようと、両腕を左右に突き出した変な格好でリナたちの上に覆いかぶさっていた。
当然、わたしの力でそんなことはできない。これだけの瓦礫の重みを背負えるはずがない。それどころか、こんな姿勢で動かずにいられる人などいないだろう。
「ハンス……」
いうのと同時に、わたしの頬に生暖かい感触が走った。それはそのまま滴り落ちて、リナの服の上に赤い染みを作った。
頭のどこかを切ったのだろう。髪の毛の先からも、真っ赤な血が雫となって落ちていた。
「すみません、ミサキ」
「大丈夫」
わたしたちのあいだでは、それだけですべて通じた。
通じていないのは、リナたちの方だった。
わたしが身に着けているのがただの介助装置だと思っている彼女たちには、どこから声がしているのかわからない。
無視して、わたしはいった。
「ハンスの方こそ、大丈夫?」
これだけの衝撃を受けたのだ。ハンスが無傷だという保証はなかった。
それに、いまもわたしにのしかかる瓦礫の重さは、ハンスが支えてくれているのだった。
「大丈夫です。大きな問題はありません」
それが嘘だとはいわない。だけどハンスの言葉がすべてを語っていないように、わたしには感じられた。わたしたちは、それがわかるくらい時間と経験を共有していた。
「大きくない問題は?」
ためらうようなわずかな間を置いて、ハンスが答えた。
「非常に強い衝撃を受け、フレームが何カ所か歪んでいます。また、バックパックの防水性が破損しました。内部診断をかけています」
バックパックにはハンスの本体が入っている。防水性は、水に入っても大丈夫といつかハンスが誇らしげに話していたものだ。逆にいえば、高い防水性を必要とするのは内部が水に弱いからだ。それが破られたということは、ハンスは危機に直面しているということになる。
「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん……」
ため息交じりの声が出た。
話しているあいだも、ハンスのモーターは常に唸りを上げていた。フレーム内の人工筋肉の方はほとんど音を立てないからわからないけど、それでも相当の負荷がかかっているはずだ。
「誰と話してるの……?」
動転した声で、リナがいう。
彼女からすれば、不安で仕方がないだろう。倒壊した拝殿の瓦礫の中、奇跡的にできた小さな空間に閉じこめられ、その奇跡を生んだ張本人は瓦礫の重みを一身に受けながら、自分のすぐ上で見えない相手と会話しているのだ。
わたしが瓦礫を支えるのをやめれば、わたしたちはあっという間にぺしゃんこだ。なにしろわたしの背中には、建物の屋根が丸々ひとつ乗っかっているのだ。
ハンスの青いインジケータにうっすらと照らされたリナと目が合った。
その唇が、再度開かれた。
「ミサキ、誰と話して……」
「ねえ、リナ」
リナの言葉をさえぎって、わたしはいった。
「わたしをいじめてるとき、楽しかった?」




