27 ザラザラしたもの
決意というのは、あまりにも簡単に揺らぐ。
玄関を出るやいなや、といってしまうのはあまりにもわたしがかわいそうなので、せめて家を出てしばらくしてからということにしておきたい。
実際、玄関を開けて強い向かい風にあおられたときには、むしろよりやる気になったほどだ。きっとそれはアドリナリンのせいもあったのだと思う。
だけど雨風に打たれながらザビエル山に向かう道路を歩いていると、わたしのなけなしのアドリナリンは尽きていき、やっぱりこんなことしない方がよかったかもという思いが頭をもたげていた。
自分一人だったら本当に引き返してしまっていたかも知れないし、そもそも一人ではこんなところまで来ることはできなかった。わたしにここまで来る力を、二本の足で歩く力を与えてくれたハンスの言葉がなかったら、歩き続けることができたかどうかは正直あやしかった。
傘は家を出た瞬間にひっくり返ってしまったから、そのまま置いてきた。着てきたレインコートもすでに用をなしておらず、方向の定まらない風にあおられて、フードはとっくに脱げてしまっていた。
襟元はハンスの視界を確保するためにいちばん上まで閉めることができず、そこからも容赦なく雨が吹き込んでくる。首筋を伝った雨は遠慮なく服の中に流れ落ち、胸を、背中を、とどまることなく水滴が流れ落ちた。
道路の脇はすでに小川のようになっていて、水の流れに耐えきれなくなった小石がときおり運ばれていった。
懐中電灯に照らし出された中を、木々が揺れる。まるで山全体が揺れているかのようだ。そしてその視界を叩きつけるような雨がさえぎる。
この前来たときよりうんと長い時間をかけて、ようやくザビエル神社に続く山道の入口までたどり着いた。山道はあちこちから流れ出た水に寸断され、川と区別がつかないどころか、もはや滝の様相を呈していた。
わたしは一度しゃがんで、両足の靴ひもを確認した。水を含んだ靴ひもはしこりのように固く結ばれていて、それを引っぱった指に嫌な感触を残した。
そのとき、靴ひもの感触がわたしの心のどこかとつながっているような気がした。心のずっと奥にある、嫌な感触と。
なんだろう?わたしはいま、なにに触れそうになったんだろう?
わたしはそんな思いを断ち切るように、立ち上がって一歩踏み出した。足が地面につくと同時に盛大に水しぶきが上がったけど、それが水溜まりからのものなのか靴の中からのものなのかわからないほど、わたしの靴はとっくに水浸しになっていた。
「行くよ」
わたしはハンスにというより、自分自身に向かっていった。
「危険です。以前訪れた際にも、ミサキはかなり苦労して登っていました」
「わかってる。でも行かなきゃ」
あのときの苦労は、本当はわたしのものではなくハンスのものだった。わたしもバランスを取ったり木の枝をつかんだり、ときには地面に手をついて転ばないようにしていたけど、運動の大半はハンスが受け持ってくれていた。
今回はあのとき以上にわたしもがんばらなくちゃならないだろう。だけどあのときは初めてのハンスとの外出だった。
いまならあのときよりずっとうまくやれる。
そんなわたしの自信を嘲笑うかのように、風がごうごうと音を立て、木々を揺らした。雨に洗われた赤土は、一歩ごとにわたしの足を滑らせ、転倒させようとする。わたしは左右の木の枝をつかみ、身体を引っぱり上げるようにして山道を登った。
「リナはミサキの友だちなのですか?」
唐突に、ハンスがいった。その声は風と雨のせいでだいぶ聞き取りにくかった。わたしは叫ぶようにハンスに答えた。
「友だちだったよ、少なくとも」
「友だちというのは、任意になったり辞めたりするものなのですか?」
ハンスとの会話は、嵐の山道でするにはあまりにも場違いな気がした。
「さあ、どうかな。友だちには知らないうちになるし、知らないうちに友だちじゃなくなることもあるし、突然友だちじゃなくなっちゃうこともあるの」
リナとの友だち関係の終わりは、突然だった。なにが原因であんなことになったのか、いまでもわからない。でもそれを望んだのはリナの方だ。
それを思うと、胸の中のなにかがうずいた。
悲しさ?さみしさ?違う、もっとずっと、ザラザラとした嫌な感触だ。
「ではリナは、ミサキの友だちなのですね」
「なにいってるのよ。ショッピングモールでのこと、見てたでしょ」
「はい。ですが、ミサキがいまここにこうしていることも見ています」
「ここにいるからなんだっていうのよ」
「友だちだから、危険を冒して助けに行こうとしているのではないですか?」
そんな馬鹿な。だったら消防隊員も、レスキュー隊員も、みんな救助された人のお友だちってことになってしまう。
「違うよ」
リナが友だちだとは、間違ってもいえない。そんなこと、いいたくない。
「わたしはね、状況が状況だから仕方なくここに来ただけ。別にリナが友だちだからじゃない」
誰かと連絡がつけば、誰も好きこのんでこんなところに来ない。頭から足まで、すっかりずぶ濡れになってまで。風にあおられて鞭のようにしなる枝で、そこかしこに打ち身を作ってまで。
「外と連絡が取れない、リナ本人とも取れない。そのリナがザビエル神社にいるかも知れない。わたしにも、普通の人にもむずかしいだろうけど、ハンスがいれば行って帰ってくるくらいはできる。ネットがつながるようになったら、リナたちが無事ですってすぐに連絡する。できることがあるから、やってるだけ。わたしは、一般的な道徳観に基づいてやって来ただけ」
そうだ、これは人としてあたりまえのことに過ぎない。
なのになんだろう。わたしは口から出る言葉の端々にヒリヒリとした嘘が混じっているのを感じた。
「無理だと思ったら、すぐ引き返すから」
「十分に注意してください。わたしのアクチュエータにもミサキの身体にも、かなりの負荷がかかっています」
雨風の音の合間を縫って、さっきからずっとハンスのモーター音が響いている。その音が細かく断続的なのは、ハンスが休むことなく微調整をしているしるしだ。滑りやすい道のお陰で、わたしの重心はぶれにぶれている。ハンスはそれを絶え間なく修正しなければならない。
ハンスにいわれたとおり十分に注意して、わたしは一歩一歩確かめるように山道を登った。足をさらおうとする滝のような流れに逆らって進むのは、思った以上に神経をすり減らす行為だった。
実際、何度か足を滑らせ、その度に四つん這いになって滑落するのをこらえた。ハンスといえども、あまりに急激な重心移動には対応しきれず、転ぶのを防ぐことまではできない。
山頂が近付いてくると風がますます強くなり、雨の重みでたれ下がった枝が上へ下へ、右へ左へと揺れ動いていた。そのうちの一本をつかんで身体を引き上げると、途端に視界が開けた。
朽ちかけた鳥居から続く一本の石段。吹き荒れる嵐の中で、石段だけがモーゼが割った海のように、森を分けて上へと伸びていた。
ようやくここまで来た。石段にも滝のように水が流れ落ちているけど、さっきまでの土がむき出しの道とは歩きやすさが違うはずだ。
わたしは顔を上げて、行く手を見据えた。強い雨が顔中を叩いて、目を開けているのがむずかしいほどだった。それでも手をつき、膝をつきしながら石段を登り切り、ザビエル神社の境内にたどり着いた。
ちっぽけな境内はこの嵐の中ではいかにも頼りなく見えて、とても神さまのご加護を受けているようには思えなかった。少なくともザビエル神社の神さまは、猛烈に発達した低気圧よりは力が弱いのだろう。それともやっぱり、この神社にはもう神さまなんていないのかも知れない。きっと神さまだって、こんな荒れ放題の神社には嫌気が差してどこかへ引っ越ししてしまったに違いない。
そうでなかったら朽ちかけた拝殿の中、女子高生たちを震えながら身を寄せ合っているままにさせておいたりはしなかっただろう。




