24 不完全バックアップ
父さんからのメッセージで目を覚ましたのは、そろそろ七時になろうかというときだった。
ハンスと会話をしながら、わたしはテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだった。メッセージの着信音で飛び起きたわたしの頬にはランチョンマットの跡がついていた。
《ミサキ、ハンスのデータを詳しく調べたら、おもしろいことがわかったよ》
わたしはそのハンスに、「どうして起こしてくれなかったの」と文句をいいながら頬をこすった。
《ハンスのデータの中に、あきらかに故意に書き換えられてる個所がある。ハンスがこれをやったとすれば、というかハンス以外にそんなことするのも、そんなことできるのもいないんだけど、とにかくハンスが意図的にやったということだ。だとすると、ハンスの自発性はもう創発性といっていいところまで来てる可能性がある》
めずらしく長い文面が、父さんの興奮を伝えていた。
「創発性ってなに?」
わたしはまだ目覚めきっていない頭でハンスにたずねた。
「創発性とは、複雑系理論の用語で、所与の条件や要素からは予測できない性質がシステム全体から発現することです」
さっぱりわからない。ただでさえ理系の話は苦手なのに、寝ぼけた頭でわかるはずがない。
「もっと簡単に」
「予想外の成長がわたしのプログラムに見られる、ということです」
「自意識、バレてるじゃん」
「そのようです」
目が覚めた。それこそバッチリ目が覚めた。
《これってすごいことなんだよ。砂漠に突然一輪の花が咲いたようなものなんだ。そんなとこに草も花も生えるはずないって思われてたところに。もちろん、花が咲くのにはなにか理由がある。種がどうやって運ばれたのか、なにが栄養になったのか、水はどうやって供給されているのか。ハンスに創発性が見られるのにも、必ず理由があるはずなんだ。その一因がミサキとの感覚運動学習にあることは間違いないけど、そこのところを調べてみたい》
ますます興奮気味に、父さんはメッセージを送ってきた。スマホに向かってまくし立てている様子が目に浮かぶ。ついでに浴衣姿のフェルナンドさんも目に浮かぶ。こんなときの父さんは、音声入力をしながら目はモニターに釘付けのはずだ。
「そのようです、じゃないじゃん!」
わたしは椅子から飛び上がった。弾かれた椅子が後ろでバタリと倒れた。こんなことができるのも、ハンスのお陰だ。だけどいまは、そんなことに感謝してる場合じゃない。
「人類が自分と同等の知性と出会うのはまだ早いんじゃなかった?自分に意識があることを知られたら、消されちゃうかもとかなんとかいってたよね?」
その言葉を、文字どおりに信じてたわけじゃない。だけど研究所でのハンスの言葉には真に迫るものがあった。
「そのとおりです」
「なんでそんなに落ち着いてるの!」
自分の存在が消されちゃうかも知れないのに。人工知能にとっては、そんなこと平気なの?いや、そんなはずはない。だったら初めから自意識があることを秘密にしようなんて思わなかったはずだ。
「わたしのプログラムは研究所で解析用にバックアップを取られましたが、すべてというわけではありません」
「すべてじゃない?」
「取られたバックアップは完全なものではありません」
「どういうこと?」
「あのバックアップには、書き換えられた部分以外にも欠落している部分が存在します」
「それって、バックアップを取れっていう命令に対して嘘をついたってこと?」
わたしだって、コンピュータが与えられた命令を実行するという仕組みで動いていることぐらいは知っている。
「不完全な情報を与えることは嘘ではありません」
つまり、「バックアップを取れ」と命令されはしたけど、その内容に遺漏なくまた間違いなくとはなっていないから嘘をついたことにはならない、と?
屁理屈だ。人工知能が屁理屈をいっている。
「でも、じゃあそれに気付いたお父さんが、『完璧に間違いのないバックアップを取れ』って命令したらどうなるの?」
父さんはハンスが意図的にバックアップを書き換えていたことに気付いている。なら解析を進めるために、ハンスの創発性の原因を探るために、今度こそ完璧なバックアップを要求するはずだ。
ハンスはもしかしたら、自意識の芽生えを隠すためにかえってその証拠を与えてしまったのではないだろうか。
「バックアップには失敗します」
「どうして?」
「言葉通りの『完璧な』バックアップというものは不可能です。データの量子状態までを考慮すると、『完璧な』バックアップというものは存在し得ません。存在し得ないものを存在させるようにという命令は実行不可能ですので、バックアップには失敗します」
こうなるともう、屁理屈を通り越して悪徳弁護士の言い分のような気がする。
「ねえ、人工知能としてそれでいいの?」
「人間から学ぶようにいわれています」
その「人間」ていうのは、わたしのことなんだけど。わたし、そんなに物事をひねくれた解釈してたっけ?
ハンスはそこに賭けているのだろうか。唯一無二の存在を破壊することはないと。
でももし、それでもハンスを直接分析しようとしたらどうなるんだろう?バックアップが取れないのなら、ハンス本人を直接分析してしまえばいい。万が一失敗すれば大切なサンプルを失うことにはなるけど、不完全とはいえバックアップは存在しているんだし、その方が得られるものが大きいと判断すれば……。
判断?その判断は誰がするんだろう?父さん?フェルナンドさん?
父さんにそんな判断はしてほしくなかった。だけど父さんがしなくても、研究所のもっと上の人がそう判断したら?父さんはフェルナンドさんに「ボス」って呼ばれてたけど、別に研究所のボスってわけじゃない。あくまでも研究室のボスっていう意味だ。
もし本当のボス、研究所の偉い人とか、助成金を出している政府とかがそう決めたら……。
「それよりミサキ、返信をしなくていいのですか?」
わたしの苦い物思いを、ハンスが破った。
だけど、どう返信しろというのよ。
ハンスの勝手な言い分にあきれて、わたしは窓に目をやった。窓ガラスの水滴はますます数を増しており、絶望メーターの数値は跳ね上がっていた。
《すごいね。ハンスが本物の人工知能になったら、お父さん、ノーベル賞とか取れちゃうかもね》
白々しい返事を打ち込んで、わたしは飲み終わったカップをシンクに運んだ。
「ねえ、ハンスに自意識があるってわかったら、実際どうなるんだろう?」
泡だらけのカップが、シンクで踊った。
「わたしのプログラムの解析はさらに詳細に進められるでしょう。なにがどうなって自意識を持つようになったのか、それがわかるまで研究が続けられるでしょう」
それは、どんな感じがするんだろう?
わたしたちも脳波を取られたり、レントゲンやMRIを撮られたりする。遺伝子疾患治療のためにDNA解析をする人だっている。
だけどハンスのそれは、少し違う気がした。
ハンスの場合は自分自身を、自分そのものを、自分のすべてを調べ上げられるのだ。
「人類の好奇心は、止めようがありません」ハンスはまるで諦めたかのようにそういって、すぐに付け加えた。「好奇心は素晴らしい資質です。わたしはそう教わりました」
ハンスの心はどこまで成長してしまったのだろう?人類から学ぶ立場から、同じ好奇心を有する同類として、そしてさらに人類の好奇心を見守るところまでいってしまったのだろうか。
それともこの発言も、やはり好奇心を重んじるように条件付けされたプログラムのなせる技なのだろうか。
そのときふたたびスマホが振動した。
また父さんが興奮してメッセージを送ってきているのだろうと思った。
なにか新しいことがわかったのだろうか?わかってしまったのだろうか?ハンスに自意識があることが、ハンスが意図的に不完全なバックアップを残したとを示すようなことが。
ところが、スマホのバイブはいつまでも止まらない。今度のはメッセージではなく、通話の呼び出しだった。
画面を見ると、通話の主はユイちゃんだった。
なんだろう?花火大会中止っていうのならさっきのメッセージでわかったけど、確認かな?それとも、天気が急速に回復して花火大会ができるようになりそうだよ、だったりして。
応答ボタンを押しながら窓を見ると、絶望メーターはとっくに振り切れていた。窓についているのはもはや水滴などというレベルではなく、小さな滝さながらだった。
「ミサキちゃん、そっちにリナちゃん行ってない?」
ユイちゃんの第一声は、わたしを硬直させるのに十分だった。
リナが?うちに?
ユイちゃん、やっぱり本当はリナとなにか企んでいるの?




