23 紅茶
その日、夏休みに入って最初の土曜日、空は朝からどんよりと曇っていた。
わたしには夏休みは関係なかったし、曇り空だって外に出なければなんの問題もなかった。
去年までのわたしであれば。
その日は街で花火大会が行われる日で、街を二分するあの川の岸辺から花火が打ち上げられるのだ。毎年恒例のその花火大会ではスターマインや菊、牡丹といったたくさんの花火が打ち上げられ、最後は川幅いっぱいに仕掛けられたナイアガラの上に巨大な三尺玉が広がる。
わたしは冠と呼ばれる花火が好きだった。長く尾を引くいくつもの流星が地面に落ちてくるようなその花火を真下から見ていると、自分の上に広がる空の大きさが実感できるようで、胸がすくような感覚に包まれるからだ。
でも、それは昔の話。
小さい頃ならともかく、大きくなってからは車椅子であの人混みに行くのは気が引ける。それにみんな上ばかり見ているから、足もとにいるわたしは踏み潰されそうで気が気でない。
だからわたしは、もうずっと長いこと川原で花火を見ていない。せいぜい遠くから眺めるだけだ。
だけど今年はハンスがいる。みんなと同じように、会場の地面に座って花火を眺められる。
ビニールシートに座って、首が痛くなるくらいに空を見上げて。長いこと座っていたら、おしりが痛くなったりするのかな。草の葉を濡らす夜露で、スニーカーが汚れてしまったりするのかな。風向きによっては、燃え尽きた火薬や花火の殻が客席に落ちてきたりもするらしい。あたったら、痛いのかしら?火傷とか、しないのかな?あたり一面に漂う火薬のにおいを胸いっぱい吸い込んだりするんだろうか?
「あーあ、降ってきちゃった」
カーテンを必要以上に強くつかんだまま、わたしはいった。
窓ガラスにポツリポツリと水滴があたり、その数は次第に増えていった。
スマホで天気予報アプリを開くと、ちょうど気象予報士が「夕方から翌朝までは雨、ところによっては強く降るでしょう」と話しているところだった。
「まだ四時じゃん……」
わたしは目の前を流れ落ちる水滴に向かって文句をいった。
予報が外れるなら降り始める時間が後ろにずれてくれればよかったのに。せめて花火大会が終わるまでもってくれれば。
手にしたスマホが振動し、ユイちゃんからのメッセージが届いたことを告げた。
《今日、ダメっぽいね》
久しぶりの花火大会に、わたしはユイちゃんと出かける約束をしていた。ところがこの天気だ。ほとほとわたしは運がない。
《うん、ダメみたい》
スマホの画面では、別ウィンドウで開いた天気予報が「低気圧が猛烈な勢いで発達してきています。身の危険を感じるほどの大雨になる可能性があります。くれぐれも注意してください」と、追い打ちをかけるように解説を続けていた。
《このまま降り続くようなら、中止だね》
《運営からも、そのうち発表があるんじゃない?》
やりとりをしているあいだにも、窓についた水滴は数を増していた。数が増えれば増えるほど花火大会の開催が危ぶまれる、さながら絶望メーターだ。
「はあ……」とため息をついて、わたしはキッチンに入った。
期待が失望に変わって、なんとなく手持ち無沙汰になったわたしはたいして意味もなくお湯を沸かした。紅茶でも、淹れようかな。
「花火大会の中止は、わたしも残念です」
ぼうっとお湯が沸くのを眺めているわたしに、ハンスがいった。
「だよね」
ハンスは常に新しい刺激を欲している。たくさんの人に揉みくちゃにされる花火大会は、新しい体験をする願ってもないチャンスのはずだ。
「ショッピングモールのときより人出も多いし、新しい体験いっぱいできたかも知れないのにね」
ショッピングモールのことを思い出すと、いまでも気持ちが沈む。口の中に、苦い味が広がるような気がした。でも、もしまた偶然リナに出会うようなことがあっても、今度は逃げない。
「それもありますが、ミサキが花火大会をとても楽しみにしていたので」
人工知能のくせに、人間さまを気遣うなんて生意気な。
でもハンスのいうとおり、わたしは今日という日を楽しみにしていた。なんといったって、十年以上ぶりに間近で大きな花火が見られるのだ。
ハンスを身に着けているから、浴衣を着るというわけにはいかなかったけど——そもそも浴衣なんて持っていなかったし——、それでもやっぱりウキウキして、ユイちゃんが選んでくれた少し派手な色の服を着ていくことに決めていた。
それがこの雨だ。
わたしはティーバッグを入れたカップに、お湯とため息を注ぎ、ダイニングテーブルに運んだ。
だらしなく椅子に座って、熱い紅茶をすするように口に含む。
「おいしい」
すかさず、好奇心の塊であるハンスが聞く。
「それは、おいしい紅茶なのですか?」
「ううん、安物。五十個入りで四百八十円」
うちにだってちゃんとした紅茶はある。でも今日は、そんなもの淹れる気力がない。もし淹れたとしても、お湯に溶けたわたしのため息でたちまち本来の香りを失ってしまうだろう。
「お高くておいしいのはあっち。キッチンの上の棚に入ってるやつ。これは安くて手軽でまずいやつ」
「ミサキはいま、まずいといいました。それが、おいしいのですか?」
最近では、ハンスがなにか質問してくるときにはあらかじめわかるようになっていた。なんというか、話し始める前に小さなノイズのような音がする気がする。気のせいかも知れないけど、わたしはそれでなんとなくハンスが質問してくるのがわかった。
それはまるで、目の前の人と会話しているかのようだった。人は誰かと会話するとき、小さな仕草やわずかな唇の動きで、相手が話そうとしているかどうかを敏感に察知する。ハンスの場合、わたしはそれを小さな音で感じとっているようだった。
「うん、おいしい」
「矛盾します」
「そうだね」
夏だというのにこの天気のせいで気温が低いこともあるかも知れない。エアコンが少し効き過ぎていることもあるかも知れない。だけどこの紅茶をおいしく感じるのは、それだけの理由ではないことを、わたしは知っていた。
「ハンスも紅茶が飲めればいいのに」
わたしはカップを見つめていった。
「わたしは紅茶は飲めません」
「知ってるよ」
コーヒーだって、水だって、ジュースだって飲めないくせに。そういう実直な返事は相変わらずだな。
「でもいつか、味がわかるようになるといいですね」
「ハンスはさぁ、人間になりたい?」
わたしは両手でカップをもてあそんだ。
「いいえ」
ハンスの答えは、きっぱりとしたものだった。
「どうして?」
「わたしはわたしです。人間になりたいわけではありません」
「人間になれば、紅茶飲めるよ?」
「紅茶を飲んでみたいとは思います。おそらくそれは成分分析をしたのとはまるで違うものなのでしょう。ですが、それは必ずしも人間になりたいということを意味しません。わたしは人間と、ミサキと体験を共有したいのです」
「体験の共有は大事?」
「はい。わたしはこの数週間、ミサキと体験を共有することでたくさんのことを学びました。学ぶとは知識を増やすことだけを意味するわけではありません。共感、親密さ、思いやりも学びから得られるものです」
「ハンスはわたしにその……、親密さを感じているの?」
「はい」
なんのためらいもないその返事に、わたしは思わず笑ってしまった。
「ふふふ、変な子」
「そうでしょうか?」
ハンスの受け答えは、プログラムかも知れない。感覚運動学習を通じて人間をより深く理解するように方向付けられた、電子と量子の計算の賜物なのかも知れない。
父さんやフェルナンドさんから見たら、ただそのプログラムが成長したというだけのことなのかも知れない。
でも不出来な娘のわたしにはそんなことはわからないから、あなたが意識があるというのなら、わたしはそれを心から信じるよ。
あなたもきっと同じ「心」を持っているって。




