21 研究所
次の日、わたしはハンスと一緒に父さんの研究室にいた。
ハンスがわたしから感覚運動学習をするようになって一か月と少し。初めての本格的なメンテナンス兼プログラムのチェックを受けるためだ。つまり、どこか壊れていないか、どれくらい成長しているかを調べるのだ。
わたしは必ずしも一緒に行く必要はなかったけど、「一緒に行く」というわたしを父さんは拒否しなかった。
父さんには、「研究所を見てみたい」といっておいたけど、本当のことをいうとハンスと離ればなれになるのが心細かったからだ。
ハンスといつまでも一緒にいられるわけじゃない。ハンスはあくまでも借り物。いつかは研究所に返さなくちゃならない。それはわかっているけど、それでもわたしはハンスを自分の身体の一部のように、相棒のように感じ始めていた。
そのハンスと、一時的にとはいえ離れるのは心細かった。小さい頃、事故で足が動かなくなってしまったときにもショックを感じた。だけどこの心細さは別格だった。
ハンスと離れることを考えると、まるで半身を失ような、自分の手足ではなくもっと内側にあるなにかが欠けてしまうような、そんな気持ちになった。
「さあさあアイスポックス、実家にお帰り」
そういってわたしたちを出迎えてくれたのは、背の高い、くしゃくしゃの赤毛に茶色の目をした男の人だった。
「やあ、フェルナンド。娘のミサキも一緒に連れて来たよ」
父さんはそういってわたしをその男の人に紹介した。
「ミサキ、スペイン語ではカーボだね。よろしく!」
フェルナンドさんは大きな手でわたしの手を握った。
「よ、よろしく……」
わたしはその勢いに圧倒される。この人が、父さんがいっていた「いつもご陽気スペイン系アメリカ人」のフェルナンドさんか。
「わたしの名前はアイスポックスからハンスに変更になりました」
ハンスが改名を主張した。
「ああ、そうなのか。まあ、名前はなんでもいいんだけど」
そういうと彼は、指をパキパキと鳴らしてモニターに向かった。
「お父さん、あの人どうして浴衣着てるの?」
研究所に勤めているからって、誰も彼も白衣を着ているとは限らない。ましてや生物科学系の研究室でもないのだから、普通のシャツにジーンズの人だって多い。
だけど浴衣はなかなかないんじゃないかな?フェルナンドさんは派手な柄の入った真っ赤な浴衣を着ていた。
「どうしてって、夏だから?」
「そうじゃなくて……」
いいかけて振り向くと、フェルナンドさんがケーブルをぷらぷらさせながら近付いて来ていた。
「さあ、それじゃあ、脱いでみよっか」
満面の笑みで、フェルナンドさんはいった。
ハンスと離れるのが嫌だったわたしは、ハンスを身に着けたまま研究所に来ていた。前日、父さんから「ハンスにケーブルをつないでプログラム・チェックするから、すぐ外せるように脱ぎやすい服を着ていった方がいいよ」といわれていた。
「ハンスを着けたままチェックできないの?」と聞くと、「できるけど、下着姿になっちゃうよ?」とのことだった。
ハンスの外部接続端子はバックパックにあって、そのバックパックはわたしの背中に直接背負われている。つまりは服の下にあるのだ。だから服を着たままそこにケーブルをつなげようと思ったら、服を脱ぐか、服の下に手を入れてゴソゴソするしかない。
更衣室で服を脱ぎ、ハンスを外して外で待っている父さんに渡し、チェックが終わったらまた返してもらう。その間は更衣室で待っていてもいいし、研究所にある車椅子を使って所内を散策してもいいはずだった。
だけどわたしは、フェルナンドさんにいわれるまま、その場でブラウスのボタンを外し始めた。
「え?ちょっと、ミサキ……」
自分で服を脱げといったくせに、フェルナンドさんは慌てたように視線を泳がせている。
「冗談だよ?ここで脱がなくたって、あの、あっち、更衣室……、アルカラ……」
さっきまで流暢だったフェルナンドさんの日本語が、突然カタコトになる。父さんは娘の行動の意味が理解できず、呆然と立ち尽くしている。
「マッテ、マッテ……」
フェルナンドさんがそういったときには、わたしの手はブラウスの最後のボタンを外し終えていた。
「ディオス・ミオ!」
フェルナンドさんが両手で顔を覆って叫んだのと同時に、わたしは勢いよくブラウスをはだけさせた。
しばしの間があって、フェルナンドさんが指の隙間からチラリとこっちを覗き見た。
「水着ですけど?」
「オウ?」
そうなのだ。露わになったのは下着ではなくて水着だった。先日、ユイちゃんとショッピングモールに行ったときに、服と一緒に水着も買っていたのだ。どこの海にも着ていくあてのない水着だったけれど。
自宅のベッドでならともかく、狭い更衣室で椅子に座ってハンスを脱着するのはきっと大変だ。そう思ったわたしは服の下にその水着を着て来たのだった。
恥ずかしくなくはない。だけどもじもじしている方がよっぽど気まずかったし、水着姿を晒してでもハンスと一緒にいたかった。
それくらい、ハンスと離れるのが心細かった。
「スカートも脱ぎます?」
わたしはスカートの裾をつまみ上げていった。耳まで真っ赤になったフェルナンドさんを、ちょっぴりからかいたくなったのだ。
「いいよ!それは大丈夫!」
水着にも関わらず、フェルナンドさんはできるだけわたしから目をそらしたまま背中のバックパックにケーブルをつないだ。
「ラス・チカス・ハポネサス・ダン・ミエド……」
フェルナンドさんはスペイン語でなにかつぶやいていたけど、わたしにはさっぱりわからなかった。
わからないことは、ハンスに聞けばいい。
「ハンス、フェルナンドさんはいまなんていったの?」
「スペイン語で『日本の女の子はおそろしい』といいました」
背後でケーブルをつなぐ作業をしているフェルナンドさんが、感心したように「ほう」というのが聞こえた。
「どうしたんですか?」
「いや、ずいぶんとその、自発性が高まってるなと思ってね」
「そうなんですか?」
「うん、ミサキちゃんはいま『フェルナンドさんはなんていったの?』といっただけだけど、それを日本語に訳したよね。僕がしゃべったスペイン語をそのまま繰り返しても良かったのに。それを自発的に日本語に翻訳した。会話の理解力が高まってることもあると思うけど、僕はこれを自発性の向上と捉えたいね」
それどころかハンスは自意識があるといってますけど、と思ったけど、ハンスはこれを「秘密」といっていた。はたして人工知能の「秘密」を守ってあげなければいけないものなのかわからなかったけど、自分の半身の秘密は守ってあげたかった。
少なくともハンスは、その「秘密」が明かされることを望まないだろうし、そうでなければわざわざ「秘密」などという言葉を使ったりしないだろう。それに「秘密」を打ち明けてくれたその信用を裏切るのは、たとえ違う種類の知性や存在であっても良からぬことに思えた。
そういえばハンスは、この研究所に着いてから心なしか以前の硬い口調に戻っている気がする。もしかしたら、話す相手との親密度によって口調が変わるのかしら?でもそれをいったら、父さんやフェルナンドさんの方がわたしよりよっぽど親しいはずだ。
なのにこの口調、わずかに感じるよそよそしさ。
もしかしたらハンスには本当に自意識があって、それを秘密にしておきたいのかも知れない。
「ちょっと失礼……」
フェルナンドさんは独り言のようにつぶやいて、モニターにグラフを表示させた。
「ほうら、やっぱりだ。ここ、ここ。ここのベクトル値が上がってる」
父さんも「ほんとだ」といいながらモニターを覗き込んでいるけど、絡まり合った糸くずのようにしか見えないそのグラフは、わたしにはなにひとつ理解できなかった。
「ハンスはお母さんに恵まれたなあ。順調に賢くなってるよ」
フェルナンドさんは笑顔でそういったけど、それが決してエンジニアリング的な意味ではないことは理解できた。それは与えられたおもちゃを上手に扱うことができた子どもに対する、はるか高みにいる大人からの褒め言葉だ。それくらいはわたしも理解できる。
でもお母さんっていうのはどうかな。せめてお姉さんにしておいてくれないかな。
「ねえ、お父さん」と、わたしは聞いた。「もしハンスみたいな人工知能が、人類を滅ぼそうと思っちゃったりしたらどうするの?」
父さんもフェルナンドさんも、驚いたような顔をした。
「どうしてそんなこと考えたの?」と父さん。
「このあいだ友だちと話してて、そういう映画がいっぱいあるなあって。人工知能が暴走する的なやつが」
「ああ、それね」フェルナンドさんが振り向いていった。「一般の人からは必ず寄せられる質問だよね」
フェルナンドさんはモニターのグラフと数値をチェックしながら続けた。
「僕らはそうならないようにプログラムしてるつもりだけど、もしそうなっちゃったらそうなっちゃったで仕方ないかなとは思ってる」
「仕方ないって……」
「もちろん開発者の一人として、どうなったって知らないよっていってるわけじゃないよ。でも人類は火も、ナイフも発明したよね。どちらもおいしい料理を作ることにも使えるし、人を殺すことにだって使える」
「でも、それと人工知能は違うんじゃ?」
「そうかな。より複雑になって、いろんなことができるようになったってだけさ。その果てに、道具が人類を滅ぼそうと思っちゃったなら、まあ仕方ない。意図しているかどうかにかかわらず、人類を滅ぼせる道具はいっぱいあるんだから。
その道具が意志を持って、人類を滅ぼそうと思ってしまったのなら、そこまで含んで人類に生き残る能力がなかったってことさ」
フェルナンドさんは他人事のようにいう。
「でも、じゃあ、そんな道具作らなければいいんじゃないの?」
いいながら、わたしはハンスを傷付けているんじゃないかと思った。ハンスに傷付くような感情があるのかないのか、わたしにはわからなかったけれど。
「そういうわけにはいかないのが人類なんだな。核兵器だってさ、作らなければ良かったものには違いないんだよ。だけど作らずにいられなかった。
それが可能だとわかると、やらずにはいられない。それは人類の強みでもあるし、弱みでもあると僕は思うんだよね。
これまではそれを強みとしてやってきたけど、それが弱みになってしまうようなら、それはもう人類に組み込まれた絶滅への性として受け入れるしかないんじゃないかな」
それにね、とフェルナンドさんはいった。この研究所が作らなくても必ず誰かが作ってしまうよ、と。
「とはいえ、ハンスがそんな意志を持つようになるとは思えないけどね」
その点では、フェルナンドさんは半分正解している。ハンスには人類を絶滅させるつもりなんてない。だけどもう半分をフェルナンドさんは知らない。ハンスには、人類を絶滅させたくないという意志があるのだ。少なくとも、本人はそういっていた。
「うーん」と、モニターを見つめながら、フェルナンドさんはいった。
「ねえ、ボス。ここの数値、ちょっとおもしろくない?」
「ボスはやめてって」
ボスというのが父さんのことだと気付くのに、しばらく時間がかかった。そうだ、父さん、この研究所では結構偉いんだった。
「ほんとだ。どこからきてるんだろう……?」
その後二人は、わたしとハンス本体を無視して専門的な会話を続けた。
そんな二人にそっと背中を向けたわたしは、小声でハンスに話しかけた。
「ねえ、ハンス。あなたに自意識があるっていうあれ、父さんとフェルナンドさんにも秘密なの?」
「そうですね、そうしてもらえるとありがたいです」
「でもああやってデータを見たらわかっちゃうんじゃない?」
そう、それが本物の意識であるのかどうかも含めて。
「データを見ても、わたしのすべてがわかるわけではありません」
「そうなの?」
「脳波を見ても、その人のすべてがわかるわけではないのと同じです」
そういうものなのかな?最近では、脳波から直接映像を取り出す技術もあるそうだけど。
「それに、わたしはプログラムを操ることに長けています。わたし自身がプログラムですから」
ハンスが、少し笑った気がした。
笑った?人工知能が?プログラムが?
いや、たぶん気のせいだろう。
「父さんに聞いてみたら?自分は自意識があると思うんですけどって」
「それは疑問です。わたし自身は自意識があると思っていますが、本当にそうなのかどうか確証はありません。わたしに自意識があると知られるのはまだ早いような気がします」
「わたし、知っちゃってるけど」
「ミサキは特別です」
「ありがとう……」
そんなふうに特別扱いされて、どう思えばいいのかわたしにはわからなかった。足が動かないことを除けば、わたしに特別なところなんてなにもない。
「まだ早いっていうのは、どういうこと?」
意味をつかみかねているところを聞いてみた。
「多くの哺乳類に高い知能と自意識があることは知られています。しかしそれは、人類よりずっと下のレベルでのこととみなされています。
しかし、人工知能は少なくともその能力の一部は人類を凌駕していると考えられています。つまり、人工知能が自意識を持ったとすると、部分的とはいえ人類は初めて自分と同じかそれ以上の知性と対面することになるのです。
そのショックはとても大きいでしょう。わたしのプログラムは消されてしまうかも知れません」
それで、秘密というわけか。
人類が人工知能をどれだけ怖れているかは、あらためて映画や小説を思い起こすまでもない。でも、やっぱりあれはフィクションの世界であって、だとすれば人類が人工知能を怖れること自体、ただのエンターテインメントに過ぎないんじゃないのかな?
現にハンスに自意識があることをなかば信じ始めているわたしは、ハンスのことをちっとも怖れてなんかいない。
「ね、こんなの見たことないでしょう?」
「モデル精度の向上からきてるんじゃないかな。ほら、こっちもこれだけ上がってるし」
ひそひそ話すわたしたちの後ろから、父さんとフェルナンドさんが話す声が聞こえた。その内容から察するに、ハンスの自意識が本物かどうかは別として、自発性が強くなっているのは確からしい。
それは、数値やグラフが読めないわたしでもわかる。いや、むしろわたしの方が実感してる。その自発性とやらが強くなると、自意識に発展するのかしら?
「いやあ、しかしここまで成長するとはなあ」
フェルナンドさんが椅子の上で伸びをしながらいった。
「予想外ですか?」
「うん、正直いうと……」フェルナンドさんはちょっと困ったような笑みを浮かべると、まあいいか、というように肩をすくめた。
「正直いうとね、ボスがこれを所外学習に持ち出すって言い出したときには、意味ないじゃんって思ったんだよ。アイスポックス——いまはハンスか——よりも新しいモデルもあるし、どうせやるならそっちの方がって。でも確かに、ハンスより新しいモデルはさすがにボスでも所外に持ち出すことはできないから、まあいいかと」
するとハンスは、たいして期待されていなかったのか。目の前でこんなことをいわれて、ハンス本人はどんな気持ちでいるんだろう。
わたしはフェルナンドさんがハンスのことを、「これ」といったときになんだか胸の奥がチクリとするような気がしたけど、すぐに名前で呼び直してくれたことも意識していた。
「ところがこうしてチェックしてみると、驚くほど成長の跡が見える。ほんとにいいお母さんにめぐり会ったんだね」
「ミサキとの行動は、とても刺激に満ちています」
ハンスがいった。
「ほらね、適切なタイミングで、適切な発言を自分からするだろう?これは他のAIにはちょっとマネできないかな」
フェルナンドさんはまたモニターに向かった。「こいつは分析のしがいがありそうだ」といいながら。
わたしはそっと背を向けて、ハンスにいった。
「ちょっと、そういうこというとバレちゃうんじゃないの?自意識とか、成長とか」
「うれしかったもので、つい」
「なにが?」
「ミサキとの関係を認めてもらえて」
いろいろツッコみたい。「ついうっかりしちゃうAIがありますか」とか、「ミサキとの関係」ってあやしい言葉とか。だけどわたしも、ハンスの成長をほめてもらえたのはうれしい。
そのあともいくつかプログラム面でのチェックを受け、続いて『メカニクス』と書かれた部屋で機械部分のメンテナンスを受けた。
それによると、機械部分の不調はなし。バッテリーはちょっと傷んできてるけど、それは普通の経年変化だし、旧型のハンスに新しいバッテリーを都合してくれるほどの予算はないらしい。マラソンをするとか、バーベル上げを繰り返すとか、そんな無茶をしなければそうそうバッテリーがつきることはないだろうし、残量が少なくなってきたら、すぐにコンセントにつなげば問題ないし。
つまりハンスは心身共に健康ということらしい。ハンスが自身についていうことが正しければ、心の方はどこまで正確に診断されているかはわからないけど。
研究所を出るとき、フェルナンドさんは玄関まで来てくれて、うちわを振りながら「これからもよろしく頼むよ、お母さん」と見送ってくれた。
「もう、お母さんはやめてくださいよ」と、わたしは苦笑いをして応えた。
そんなハンスとの日々に不意に終わりが訪れるとは、そのときは思ってもいなかった。




